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礼拝メッセージ(2008年4月)

神である主は、人に呼びかけ、 彼に仰せられた。 「あなたは、どこにいるのか。」(創世記 3:9)



2008年4月27日

國分広士牧師
聖書箇所:マタイの福音書 7章24節-27節
宣教題:「岩の上に建てた家」
國分牧師

1.だから

5-7章におよぶ「山上の説教」全体の結びとして語られたのがこの例話。13-14節の「狭い門から入りなさい」という勧めのように、確かな道を歩むなら困難も覚悟するべきことと、安易な道は滅びにいたることとが対比されている。

2.岩の上に家を建てる賢い人(24-25)

岩は固い。岩場は足もとが平たんではない。そこに家を建てるのは、大きな資金や労力を要するし、その後の生活でも利便性は劣る。しかし、洪水のような大災害の日には、実は基礎こそ最も大切だったとわかる。基礎とは、「主のことば」を「聞いて」それを「行う」こと。

3. 砂の上に家を建てる愚かな人(26-27)

砂地は柔かく広々としている。もちろん地面をならしたり柱の下には石を置くなど、ある程度の基礎固めはするだろう。基礎以外の上物は立派だし、それでいて完成は早い。うまくいっている間は、むしろ賢く生きているように見えるだろう。しかし、地面が水でえぐりとられるような洪水のときには、全てを失う。「主のことば」を「聞いて」も、それを「行う」ところまではしないことが、実は多いのではないか。「どうせ理想どおりにはならない」「どうせ長続きしない」と、あきらめて、安易な道に進んでいることはないか。必ず来る「その日」(再臨)に備えよう。



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2008年4月20日

國分広士牧師
聖書箇所:詩篇 51章1節-17節
宣教題:「生まれながらの罪人」
國分牧師

1.バテ・シェバとの罪(標題)

標題は詩の背景を説明している。ダビデは部下の妻と不倫を犯し、夫をわざと戦死させて強引に自分の妻にしたのだ。神は預言者ナタンによってダビデの罪を指摘し、その指摘でダビデが悔い改めた時の詩なのだ。

2.あわれみを求める(1-4)

罪を自覚したダビデはただあわれみにすがるしかない。彼は神に忠実に従い、イスラエルに多くの勝利をもたらした英雄だったが、神は罪を行いで帳消しにする方ではない。ダビデは自分が罰され捨てられて当然であると思い、ただ神の愛にすがってあわれみを請うのである。ダビデのようにへりくだって祈ろう。

3. 生まれながらの罪人(5-13)

ダビデはどこから堕落したのかを反省し、自分の罪の出発点を振り返る。すると、実際に大きな罪を犯すずっと前から、罪を犯しかねない心の問題を抱えていたことを見出す。だからこそ、心に隙ができた時に問題が表面化したのだと。徹底的に振返ると、母が自分を身ごもった時から自分は罪人で常に神のみこころより自分の満足を求めていたと気がつくのである。(原罪と言う)

4. 罪からの救いを求めて(14-19)

悔い改めたダビデは罪からの救いを求める。それは、犯してしまった罪の赦しと、依然として持ち続けている罪の性質(原罪)からの解放である。当時は罪のいけにえを捧げて赦しを求めたが、神が真に喜ぶいけにえは「砕かれた悔いた心」。神は悔い改めを喜ばれる。エルサレムの城壁とは象徴的に新天新地を表す。神は悔い改める者の罪の刑罰を十字架の主イエスに負わせ、罪を赦して新天新地に住まわせ、原罪から解放して、救いを完成される。


音声を聞く(MP3 64Kbps 31分)

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2008年4月13日

國分広士牧師
聖書箇所:創世記 3章1節-19節
宣教題:「あなたはどこにいるのか」
國分牧師

1.神のことばに従わなかった(1-8)

聖書解釈の原則は、付け加えても削ってもいけないということ。神が2章で禁じていた内容と、女の蛇への返答は、注意深く見ると食い違っている。「園の中央の木」は二本あるが、禁止されているのは善悪のみ。また、触れることまでは禁止されていないので、これらは付け加え。「死ぬといけないから」と甘くとらえるのは削ること。「死ぬといけない」では「死ぬかもしれない→死なないかもしれない」となり、誘惑の隙ができる。神のことばをきちんとうけとめよう。

2.言い訳の始まり(8-13)

人は神に罪を問われた時、素直に認めずごまかそうとした。アダムの弁解は、そもそも神自身に責任があるということ。犯した罪自体も悪いが、反省より自己弁護が始まることも罪のおそろしさ。自分の問題を認めなければ解決はありえない。「あなたはどこにいるのか」という問いは今も私たちに語られている。

3. 自分はどこにいるのかを悟ろう(14-19)

神は即座に裁きと救いの計画を宣言する。15節の「女の子孫」とはキリストのこと。人間は罪の故に苦しまなくてはならないが、同時に、救いの約束をいただいた。神は滅びではなく救いを与えたいのだ。私たちが自分の罪を認め、イエス様が自分の罪の刑罰を代わりに受けたと信じることは、永遠のいのちを選ぶこと。今度こそ、わたしたちは、滅びではなく救いを選ぼう。


音声を聞く(MP3 64Kbps 28分)

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2008年4月6日

國分広士牧師
聖書箇所:創世記 1章26節-31節
宣教題:「非常によかった」
國分牧師

1.人間は神のかたちとして造られた(26-27)

神の被造物の中で人間だけが神のかたちとして造られた。外見よりも内面が神に似せられているのだろう。人間は創造の冠であり、全ての被造物は人間が生きる環境を整えるために造られた。神はご自分に似た人間を愛する。神の愛の対象だから人間は大切なのだ。神の愛している人間だから、私たちは互いを尊び互いを愛するよう期待されている。

2.人間には使命が与えられ期待されている(28-30)

神は人間の住まいとして与えたこの世界を上手に管理するよう命じられた。親が子に自分の持ち物を管理させるのと同じように。この使命は今も継続している。私たちは神に管理を任された世界を上手に用いているだろうか?環境を破壊するのは管理ではなく、神の期待に反する事のはず。

3. 非常によい存在として造られていた(31)

創造の段階では、世界は非常によかった。私たちにはその理想的な状態に戻りたいという願いがある。よくキリスト教は性悪説と言われるが、創造の段階では性善説である。性悪説だけに立つなら、罪を犯すのは必然なので、責任を問うことができなくなり、真剣な悔い改めが失われてしまう。人間は元々神のかたちという尊いかけがえのない存在なのだと思えばこそ、その尊い存在が神に背いて罪を犯すのは重大な問題だと捉えることができるのである。


音声を聞く(MP3 64Kbps 25分)

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