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礼拝メッセージ(2008年3月)

初めに、神が天と地を創造した。(創世記1:1)



2008年3月30日

國分広士牧師
聖書箇所:マタイの福音書 11章28節-30節
宣教題:「休ませてくださる方」
國分牧師

1.疲れた者はどこに行けばいいのか(28)

教会の表看板にも掲げている有名なみことば。初心に帰って意味を学ぼう。疲れた者はどこで休めるのか。「わたし」と何度も強調されている。「わたし」すなわちイエス様のところ。しかしなぜそんなに「わたし」強調するのか?私たちは疲れた時ほど誘惑に負けやすく、手軽に行けるところに行きやすい。だから主は、他の所でなく「わたしのところに」と強く招くのだ。

2.心やさしい方のところへ(29)

ではなぜイエス様のところなのか。それはイエス様が「心優しく、へりくだっているから」である。自分をやさしいと断言するのは誇張か自信か。聖書に示された主の姿はまさに優しさにあふれている。自分のいのちを捨てて私たちを救おうとされるるほどである。その優しさこそ、疲れをいやす。優しくされると、心が安らぐ。受け入れてもらえると、うれしくなる。

3. 生きる目的を与えてくださる方のところへ(29-30)

一時的に心が安らぐだけでは、またすぐに疲れてしまう。優しい主のくびきを負い、主と運命共同体となるなら、一時だけでなく続いて優しさが与えられる。しかも単に慰められるだけでなく、主の目的を自分の目的とし、そこに向かって真っすぐ進む有意義な人生になるので、自信もわく。慰められ励まされ自信がわいて、本当に心が元気になる。主の招きに応じよう。


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2008年3月23日

國分広士牧師
聖書箇所:ヨハネの福音書 20章24節-31節
宣教題:「信じる者になれ」
國分牧師

1.仲間の証言を信じなかったトマス(24-25)

「主を見た」と言う仲間のことばをトマスは信じない。なぜか?作家ルイスは「ナルニア国物語」で、先入観での判断を避け、証言者の人格に注目せよと語る。トマスにはゲッセマネで主を見捨てたお互いへの不信感があったのだろう。信じない背景には、他者と自分自身への不信感がある。

2.信じる者になれ(26-27)

主はトマスを見捨てずに、明確にご自分を表してくださった。彼は見ることを望んでいた主の手の傷跡を見た。なぜ主はそこまでしてくださったのか?「信じない者」には望みがないからである。実は私たちは無意識のうちにたくさんのものを信じて生きている。結局は何を信じるかの選択しか私たちにはできないのだ。ならば、真に信頼できる人格を発見することこそ幸い。主はトマスだけでなく全ての人が、主を「信じる者になる」ことを望まれている。主の愛の招きに応えよう。

3. 信じるために与えられた証(28-31)

トマスのように主を直接見ることがまずない私たちは、より幸いな「見ずに信じる者」になる機会が与えられた。見るのではなく、聞いて信じるのである。これは人の言葉を傾聴する姿勢につながる。神のことばを聞くためにこそ、聖書はある。聞かずに信じるのは妄信。聖書をよく学び、主イエスを「信じる者」になってほしい。信じて永遠のいのちを得てほしい。


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2008年3月16日

國分広士牧師
聖書箇所:イザヤ書 53章1節-12節
宣教題:「罪過のためのいけにえ」
國分牧師

1.受難は誰のため(1-3)

イザヤ53章は主イエスの時代より700年位前の預言だが、主イエスの苦しみの様子や、受難の意義が正確に預言されている。神は時間を超越しているので、今見ているように未来も語らせることができる。このことばを「だれが信じるのか?」と問われている。「わたしは信じます」と答えたい。

2.私たちの罪のため(4-6)

十字架につけた人々は神の罰と思った。しかし主イエスに罪はない。その罰は私たちの罪の罰だったのだ。私たちはどんな罪を犯したのか?
「病」→罪は病のように自分のコントロールを超え、したくない悪いことをしてしまう。 
「そむきの罪」→意図的な罪。悪いとわかりながら犯す罪。嘘・盗み・人を傷つける等。
「自分勝手」→自分を第一とすること。集合写真を見るとき、まず自分を見ないか?

3. 受難は罪過のいけにえ(7-12)

罪は罰によって裁かれる。そして適切な罰が加えられれば赦される。旧約時代には罪に応じていけにえをささげた。主イエスはご自分のいのちを「罪過のいけにえ」にしてくださった。その罰によって私たちは赦される。
   彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
   彼の打ち傷によって私たちはいやされた。 (5節)


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2008年3月9日

國分広士牧師
聖書箇所:使徒の働き 17章24節-31節
宣教題:「天地の主」
國分牧師

1.天地の主(24-25,29)

「神などいない」という人々がいる。しかし彼らが存在を否定できるのは、人間の作り上げた神々のこと。その点では我々も同感。人間が造った像は神ではない。人間が作った神殿も必要ない。人間の奉仕を喜ぶが必要だからではない。人間が神を作ったり守ったりするのではなく、神が人間を造り守っていてくださるのだ。私たちの信仰と奉仕は感謝の表現なのだ。

2.神は遠くない(26-28)

神は意図的に人間を世界各地に住まわせ、またそれぞれの歴史を与えられた。人間は神の意志とは無関係に生きているように見えるが、実は神はすべての人を守り導いておられる。過去も今も未来も、地球も宇宙も、全て神の支配の中で存在している。神が許さなければ存在することはできない。ということは、逆に、今自分が生きているのは、神の愛が自分にも注がれているから。私たちは神に愛されている。だからこそ、私たちは一番自分を愛してくださっている神を求めるのだ。

3. 悔い改めよ(30-31)

神の存在も愛も無視して、他の物を求めるのは偶像崇拝で神が最も嫌われる罪。親は愛するわが子が自分以外の人を親と呼ぶことを許せるだろうか?神を神とあがめない罪を私たちは悔い改めなければならない。幸いなことに、神は悔い改めを喜んでくださる。すなおになって、「神様、ごめんなさい。」と悔い改めよう。


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2008年3月2日

國分広士牧師
聖書箇所:創世記 1章1節-31節
宣教題:「神が造られた世界」
國分牧師

1.初めは良かった(1,31)

神のみわざは大きく「創造」と「救い」の2つがある。私たちは救いについて知りたいと思うが、聖書はまず創造から語る。創造者だから救うこともできるという、救いの根拠を語るのだ。機械が壊れたらメーカーに修理してもらうように、私たちの問題を解決できるのは私たちを健全な状態に造った神なのである。

2.人の住まいとしての世界の創造(1-25)

神は段階的にこの世界を整えながら造り、人間が暮らすことのできる環境を整えた。
1:光(3-5) 
2:大空(6-8)
3:陸と植物(9-13)
4:天体(14-19)
5:水中生物と鳥(20-23)
6:陸上動物(24-25)
段階的に世界が完成するという世界観は現代科学と同じ。この記述が紀元前1500年頃であり、しかも伝承そのものはもっとずっと古いことを考えると、信じがたい正確さ。この情報は創造主から与えられたのだ。

3. 神のかたちとして造られた人間(26-31)

創造の締めくくりは人間。人間は神のかたちとして造られた。偶像は神のかたちではない。それは神の実態とかけ離れている。神ご自身が自分の姿を造ったのが人間。創造主に似ているので人間も創造性を持ちそれを重んじる。また親が子に自分の部屋を管理させるように、神は人間に世界の管理という使命を与えられた。人間が神の命令に従っていたとき、この世は「非常によかった」。元の健全な状態に戻していただくことを求め、悔い改めよう。


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