

1.主はザアカイを知っていた(1-4)
取税人は売国奴と呼ばれても利益を得ようとする人々。現世的で神の国には無関心だと思われていたが、実は主を求める思いを持っていた。必死で主を見ようとしたザアカイの名を主は呼ばれ、前から彼の家に泊まる計画だったと告げ、彼の心の奥底に救いへの願いがあることを理解しておられることを示された。主はなんでもご存知であり、全てを計画されているのだ。
2.主のみこころに従おうと決意したザアカイ(5-8)
ザアカイは主のことばに従って家にお迎えした。おそらく彼の家には、主に見られて恥ずかしいものもあっただろうが、隠す暇はない。主を信じるとは、自分の心に主を受け入れ、ありのままの自分を見ていただく事なのだ。主を迎えると、ザアカイの心には、主に喜ばれる為に自分の犯した罪を告白し、心を造りかえていただきたいという願いがわいたのだ。
3. 主を迎えた日に、主を迎えた家に、救いが来た(9-10)
「きょう」とは主を迎えた日。「この家」とは主を迎えた家。主がこの地上に来られたのは、本来、神のもとにいるべき人を捜して救う為であった。エデンの園で「あなたはどこにいるのか」と人を呼ばれたように、主は私たちをも捜しておられる。ザアカイのように、ありのままの姿で主を心にお迎えしよう。主は私たちを救って、聖い願いを心におこしてくださる。
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1.父と子(6-15)
イエス様は非常に身近な存在として父なる神を語る。イエス様は「わたしを見た者は、父を見た」(9)と、ご自分が父が一つである事を強調している。しかも「わたしを通して…父のみもとに来る」(6)と、自分と父が別物であることも語る。「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(10)とは、区別がつかないほど親しい関係だと言うこと。主イエスと父とは愛で結ばれている。
2.助け主(16-17)
主イエスはこの話の流れとして、父と子だけが神なのではなく、御霊もおられことを語る。主が父にお願いして派遣していただくもうひとりの助け主が御霊(16)。御霊はイエス様とともに私たちを助けて下さる。(26参照) 主は御霊を、人格的存在であり、敬意を払うべき、主イエスと対等の存在として御霊を紹介している。
3. 愛によって結ばれる神(26)
父と子がひとつであり、子と御霊は対等。そのような聖書の教えを表現したのが「三位一体」という神学用語。父・子・御霊はそれぞれが完全な方でありながら、愛で結ばれてひとつなのである。夫婦が愛で結ばれて一つになるのは神に似せられた人間の性質。「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる」(17)とは父と子とよく似た関係。主を信じる者は、神の親しい交わりに加えていただけるという事(23参照)。愛に満ちた神を信じ、その愛の交わりに加えていただこう。
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序
聖書には「神とは何か」といった論文はないが、随所に神はどういう方かが記されている。その総論として私たちは「神は無限のお方」だと告白するのである。神の無限性が語られている一例の箇所を学ぼう。
1.永遠のいのち(16-19)
私たちには「限りある命」しかない。しかし聖書は「永遠のいのち」を教える。神は永遠のお方であり、私たちをも永遠に生かす事ができると。どんな良い行いをすればと主イエスに尋ねた人がいた。彼は金持ちだったが富の楽しみよりも神を求め、戒めを守るまじめで立派な人だった。
2.むずかしい(20-25)
財産の話題になると彼は悲しみ去る。彼にとっては、永遠のいのちより地上の財産の方が重要であったことが明らかになったのだ。大切にしている物が多い人ほど神に全てをゆだねるのはむずかしい。これは私たちにも問われること。
3. 神にはどんなことでもできる(26)
主イエスの厳しさに弟子達は「それでは誰が救われるのか」と驚く。神の要求水準には誰も到達できないのだ。肝心なのは、だからこそ神に助けを求めるという姿勢。「人にはできないが神にはできる」と「信じるか信じないか」が分かれ道。真に頼りになるのは人でも自分でもなく全能の神。神ならこの私をも悔い改めに導くことが出来ると信じて、助けを求めよう。
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1.主はただひとり(4)
聖書は唯一の神を示す。他の教えは多神教(汎神論)もしくは無神論。多神教はひとりの神を絶対視しないので、ひとつの神だけでは十分でなくなり「どの宗教も結局は同じ」という見方につながる。しかしそれは、「宗教は心の慰めにすぎない」という、神の実在を無視した無神論とあまり変わらない見方。確かに多くの神々は実在しない。唯一の創造神だけが実在するのだから。
2.主を愛しなさい(5)
「神はいる」と認めても、信頼しないならいないのと同じ。神はご自分を父として敬う事を求めている。神は私たちを愛し、造り、救い、守っていてくださる、父なるお方なのだから。子が自分を親と認めながら尊敬しないなら、それでも満足できるか?自分を軽視し他の者を親のように愛すことを許せるか?主を愛するかどうかで、信仰は明確になる。
3. 心を尽くして(5-9)
尽くすということは、第一とするということである。自分が第一なのか、主が第一なのか。そう考えると、私たちは自分本位であることが多いのではないか?人間のほうが優位に立つなら、神を否定する無神論とあまり変わらない。自分のほうが優位なら、嫌になれば他の宗教に宗旨替えしてしまう多神教と変わらない。悔い改め、主を神としてあがめよう。
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