

1.私たちの戦い(10-13)
神は世界の初めより私たちを選び、主イエスによって新しく生まれさせて下さった。また、内なるものを強め、キリストの似姿にまで成長させて下さる。だが同時にそれを妨げようとする悪の力がある。私たちは恐れ退くのでなく、しっかり立って救いを全うさせていただかなければならない。
2.戦いの備え(14-17)
神は悪の力に対抗するために6つの武具を手にするよう求められる。真理の帯、正義の胸当て、足に平和の福音。信仰の大盾、救いのかぶと、神のことばである剣。これらの武具は神の愛から引き離そうとする悪の力から私たちを守る。また武具は私たちが神のものである証し。私たちの栄誉(イザヤ11:5、59:17)
3. 祈り、祈りあう(18-24)
最後に祈りが求められる。悪の力を知っておられた主イエスは日々朝早くから祈り備えられた。私たちにはなおさら必要になる。私たちは自分のために祈り、また兄弟姉妹から祈られる必要がある。ともに祈り、支えあって前進しよう。
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1.住民登録のタイミング(1-5)
主イエスの父母マリヤとヨセフはナザレに住んでいたが、キリストはベツレヘムで生まれると預言されていた(ミカ5:2)。距離は100キロ以上。臨月の妊婦が歩くか家畜に乗るには遠すぎる。だがローマ皇帝の命には個人の事情など通用しないため、やむなく移動。この命令が早すぎても遅すぎても主イエスはベツレヘムで生まれなかったし、羊飼いがイエス様を礼拝することもなかった。地上の支配者の皇帝はイエス様のことなど知らずに命令を出したが、その背後にタイミングよく世界を導く神の手があったのだ。
2.飼葉おけに寝かされたこと(6-14)
初産のマリヤにとって、長旅の直後の出産は大変だっただろう。しかも、宿屋には彼らのいる場所もなく、生まれた赤子を牛馬の餌入れである飼葉おけに寝かせるのはさぞわびしかっただろう。しかし、それが羊飼いたちのためのしるしとなった。飼葉おけに寝かされたイエス様の姿は、どんな人の礼拝も受け入れる神の寛容な心を示している。家畜の糞尿より汚れた私たちの罪をその身に引き受けようとされる、寛容なお心を。
3. 羊飼いは捜し当てた(15-20)
天使のお告げを聞いた羊飼いたちは、選択が迫られた。羊を残して主キリストを捜しに行くのか、羊を守るためにやめておくのか。延期するなら、いつまでも飼葉おけに寝かしておくはずはない。すぐに行かなければ、彼らにとってのチャンスは無いのだ。キリストに出会うべきタイミングを神が与えてくださったなら、その時をのがしてはならない。羊飼いたちはそうした。羊は神に委ね、飼葉おけのありそうなところを捜し、ついにイエス様を捜し当てたのだ。私たちも今、キリストに出会うようにこの礼拝に招かれている。このタイミングをのがさず、今、心を開いて、イエスさまを自分の主と信じよう。
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1.とまどった(26-29)
神の御使いはその聖さが人に圧倒的な印象を与える。マリヤも恐れ、御使いの語る事が何のあいさつかわからずにとまどった。御使いはマリヤに七つのことを告げた。1妊娠 2男子を出産 3イエスと名付ける 4子はすぐれた人になる 5神の子と呼ばれる 6神が王位を与える 7永遠の王となる。それは救い主の誕生の宣言であった。
2.どうして?(30--37)
救い主の誕生は待ち望んでいたが、まだ処女であるマリヤにとって、自分が母となる事は理解できなかった。御使いは三つの説明をした。1聖霊による妊娠なので処女から生まれる 2親類エリサベツも超高齢で男子を妊娠している 3神に不可能はない。確かに神の子だと確認される為には、処女が必要であるし、生まれた子の養育には父親も必要である為、婚約中の処女マリヤが選ばれたのは、神の知恵であった。
3. おことばどおりに(38)
マリヤは三つの事を返事として言った。1自分は主のしもべである 2神のことばが実現することを願う 3自分の胎に神の子が宿ることを願う。それは自分を主に差し出してゆだねる信仰であった。マリヤのように主に自分を明け渡す者は、幸いである。(45節参照)
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1.主にあって従いなさい(1)
子が親に従うのは神の創造の秩序。親は子への愛を遂行する神の代務者として神が定めておられる。父母を敬う者は、しあわせになるという神の約束に注目しよう。親は子に敬われることを何より喜ぶので、ますます子を愛する。子が親を敬えない家庭は崩壊の危機にあるのだ。
2.子をおこらせてはいけない(4)
子が親を敬う事が難しい現実は、今も昔も同様。罪人が神の代務者として子を愛そうとする時、しばしば過ちを犯すからだろう。子を放任したり過干渉になったり、そのどちらもが子をおこらせる。子が親を敬えない原因はほとんど親にある。この幸せの為、敬われる親となろう。
3. キリストのしもべ(6)
現代社会では奴隷制度は廃止されたが、事実上、奴隷のように拘束されている人々はこの社会にも多く存在する。彼らは望みなき負け組なのか?聖書は奴隷にも積極的に勧めをしていることに注目しよう。地上の主人に真心から仕える事は、しもべが神に仕える事の実際的な表現なのである。奴隷も自由人も、主からの報いは変わらない。主の前では負け組ではないのだ。
4. 主人もキリストのしもべ(9)
奴隷の主人にも、奴隷に対して「同じようにふるまいなさい」と勧められている。主人もキリストのしもべなのである。いわばしもべ社会の中で、主人から他のしもべを管理する仕事が与えられているしもべの頭なのだと、自分をわきまえるべきなのである。しもべ頭がどのようにふるまうかが、配下のしもべたちのふるまいをも決定していく。頭とされた人々は神の代務者としての責任があるのだ。
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序
繰り返し表現は注目点。「ように」の繰り返しに注目しよう。
1.主に従うように(22)
現代は夫婦対等が強調され、従うことを屈辱と感じる風潮がある。しかし聖書は積極的な愛の実践として教える。心の奥底まで見る主に従うには、愛の感情だけでなく、主のことばの意味をよく理解しようと聞く姿勢が必要。「私には理解できない」とあきらめていないか?主に従うように夫に従うため、夫の良き理解者となろう。男性の本質的な求めは尊敬される事なのだ。
2.教会がキリストに従うように(24)
教会がキリストに従うとき、条件はつけない。「あなたがこうしてくれたら、こうであったら…」などとイエス様に言うのは失礼ではないか。しかし夫には条件を付けたい思いを持ちやすいのでは?それは実は傲慢。妻の従順が夫に深い満足をもたらすことを忘れてはならない。主も従順を喜ばれる。
3. キリストがご自身をささげられたように(25)
キリストの愛は徹底的な自己犠牲である十字架によって表現された。夫の妻への愛も、自分を妻にささげることによって表現されなければならない。これは従順に対する報いではない。キリストは私たちが従うより先に死なれたのだから。妻の為に死ぬ覚悟はあるか?
4. 自分のからだのように(28)
自分のからだをいたわるように妻をいたわるなら、妻は喜ぶ。女性の本質的な求めは愛なのだ。自分が疲れている時こそ、妻への愛を示すチャンス。そして妻が喜ぶ姿を見れるなら、夫も満足できる。妻を愛するとは自分を愛する事なのだ。主も私たちが喜ぶことに満足される。
結
このように愛は妻に、尊敬は夫に与えられるべき。逆に与えれば互いに不満足。ふさわしいものを与え合い、幸福な家庭を築こう。
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