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礼拝メッセージ(2007年10月)

今月のみことば
愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(エペソ4:15)



2007年10月28日

國分広士牧師
聖書箇所:マルコの福音書 5章21節-43節
宣教題:「恐れず信ぜよ」
國分牧師


不条理にしか思えない痛みの経験はなぜあるのか?愛の神がおられるなら、なぜすぐに解決してくださらないのか?

1.ヤイロの痛み

ヤイロは死にかけている娘を助けたくて苦しんでいる。すでにイエス様に懐疑的な律法学者たちの視線も無視してイエス様に助けを求めひれ伏すふす。主が彼の家へと向かってくれて喜んだのもつかのま、人ごみでなかなか進めず心焦る。しかも突然「誰が触ったか」と、急ぎでもないように思えることのために主は立ち止まってしまう。ヤイロの心中を察すると気の毒。

2.長血の女への助け

彼女の痛みは人前に出られない病。その病で彼女の人生はめちゃめちゃになった。この時は彼女にとってのチャンス。「人ごみにまぎれてそっとイエスの着物にさわるだけ。」誰にも非難されず迷惑にもならずに済むと思っていた。期待通りに病は治る。しかし主が自分を探すのは計算外。「早く行ってくれればいいのに。自分のことなど放っておいてくれればいいのに。」と勝手なことを思うが、主は彼女のために立ち止まる。さわることより、正直に告白することこそ彼女を救う。主はあなたにも、告白を求めておられる。

3. 恐れず信ぜよ

女と主が話している間に娘の死の知らせ。この最悪の時に「恐れず信ぜよ」と主は求める。マタイ9:18のヤイロのことばはこの時に発せられたのだろう。それは主を本当に信じる告白。イエス様は、真の告白へとヤイロを導くことも考えた上で、立ち止まったに違いない。主は娘を生き返らせ、すべてが解決したとき、不条理ではなく摂理であったことがわかった。
 痛み苦しむ時は、心焦るヤイロと同じような経験。苦しみの最中にいるときこそ、主が愛をもって導いてくださっていることを、恐れず信じよう。



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2007年10月21日

國分広士牧師
聖書箇所:エペソ人への手紙 4章11節-16節
宣教題:「信仰の一致」
國分牧師


エペソ4:11-12の解釈で牧師と信徒の関係の理解が大きく別れる。第一の解釈は、「聖徒を整え奉仕の働きをさせる」のが牧師の役割だと考える。第二の解釈は、その役割は牧師でなくキリストご自身の役割だと考える。この第二の解釈では牧師も聖徒の一員にすぎないが、第一の解釈では牧師は聖徒に奉仕をさせる存在となり、カリスマ・リーダーを正当化する根拠となる。

1.こうして(11)

「こうして」とは前節までのこと。前節までに語られた重要ポイントは「一致」「賜物」「キリスト」の三つ。11-12節の主語はキリストなので、賜物を与えたのはキリストであり、キリストにおいて一致が生まれる。

2.それは(12,14)

キリストが個々に異なる賜物と召しを与えた意図は、聖徒を整え奉仕の働きをさせ、キリストの体である教会を建て上げるため。整えられた聖徒は信仰と知識の一致に達し、完全な大人になってキリストの満ち満ちた身たけに達する。では牧師は既にそこまで達しているのか?とんでもない。牧師もまた整えられなければならない。教会全体が成長するための一働き人にすぎず、奉仕をさせるのではなく、他の聖徒とともに奉仕するべき存在である。

3. むしろ(15)

私たちは教えの風に吹き回されあるべき姿を見失いやすい。現代的な巨大組織論は教会にも影響し、カリスマ・リーダーを擁するメガチャーチの登場が小さな教会に動揺を与えている。しかし大切なのは教会の巨大化よりも、愛を持って真理を語る事であり、あらゆる点で成長しかしらであるキリストに達する事。大きな教会も小さな教会も、この本質においては何も変わらない。だから私たちは、私たちの教会に与えられている「人」や「賜物」を感謝し、互いに一つとなってキリストに仕えよう。



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2007年10月14日

相山扶師
聖書箇所:ヨハネの福音書 5章1節-9節
宣教題:「よくなりたいか」
相山先生


病気は、罪を自覚させ、その解決の好機ともなる。病気は罪が原因だと軽々しく言えない。しかし罪が原因であることは多々ある。憐れみと恵みに富む神はどんな苦境をも働かせて益とし、真の幸いに招くお方である。

1.よくなりたいか

神の奇跡的な介入に、病気の癒しへのかすかな期待を抱いて38年も伏せっている男性。神の介入の時、他の人の癒しを眺めては、自分を助けてくれる者のいない現実に失望を深めてきた男性に、主イエスは語りかけられる。「よくなりたいか」と。

2.起きて、歩け

よくなりたいか、とは、よくなるために行動を起こす気があるか、との確認であり、38年間伏せっていた病人に「起きて、歩け」と、主イエスは命じた。彼がこの方の権威を認め、そのことばに自分を委ねるとき、彼は、起きて、歩くことをする。

3. 神との関係の回復

彼は神の権威あることばに従うことで味わう、大きな恵みと祝福を体験する。彼の、神との関係の回復となった。主イエスは今も語りかける。よくなりたいかと。そのための行動を起こす気があるかと。主イエスを信じる。すべての解決はここにある。



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2007年10月7日

國分広士牧師
聖書箇所:エペソ人への手紙 4章7節-10節
宣教題:「賜物を与える方」
國分牧師

1.賜物の量り

私たちはみな、神からの賜物を受けている。命も、体も、家族も、環境も。人間的には、ある人は恵まれ、ほかの人は恵まれていないように思う。世界の食料の7割を世界人口の3割の人々が食べているという。なぜ神は不公平な状況を変えないのか?そこで覚えるべき言葉が「賜物の量り」。神には神の考えがあってそれぞれが異なる賜物を受けているということ。マタイ25:14-30のタラントのたとえでは、5タラントもうけた者へのほめ言葉と2タラントも受けた者へのほめ言葉は同じ。しかも多いほうにさえ「わずかなもの」と言う。神の目から見ればどんな豊かな賜物も「わずか」にすぎない。問題はまかされたものを忠実に用いるかどうかなのだ。

2. キリスト自身が賜物

賜物に差があることは出し惜しみではない。御子は天から地に下られた。ヨハネ3:16には神が一人子を世(私たち)に与えられたとある。神は最も大切なイエス様をさえ、私たちに与えるために天から下らせてくださった。さらにイエス様は私たちをとりなす方となるため、今は天にいてくださるのである。何と私たちの受けている恵みは偉大なことか。すでにいただいている恵みの価値を自覚しよう。その上で謙虚に「日ごとの糧を」と必要を求めるのでないなら、受け取ったタラントを蔑み地に埋める愚かなしもべと同じ過ちを犯しかねない。主は最善をなさる方であることを信じよう。



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