

I. 罪を赦す宣言(1-5)
1.中風の人の現実(1-4)
1)イエスが‥おられることが知れ渡った(1)
2)四人の人にかつがれて(3)‥つり降ろし(4)
2.主の赦しの宣言(5)
1)イエスは彼らの信仰を見て
2)あなたの罪は赦されました
U. 罪を赦す権威(6-12)
1. 律法学者たちの理屈(6-8))
1)神おひとりのほか‥(7)
2)イエスは‥見抜いて(8)
2. 罪を赦す権威の根拠(9-12)
1)すると彼は起き上がり(12)
2)「御子イエスの血」(Tヨハネ1:7)
「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(マタイ26:28)」
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1.助けが必要
神に助けを求めるのは弱虫と思う人は多い。しかしいじめで自殺した少年のように、誰にも助けを求められないのは悲惨。助けの必要を自覚するのはへりくだりを生む幸いな経験。詩51:17には「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とある。
2.どこに助けを求めるのか
では助けをどこに求めるのか?楽しみや気晴らしでは一時的。「山に向かって目を上げる」とは、手近な一時しのぎでなく根本的解決を期待する態度。娘を拉致された横田姉は「すべてを支配する神」がおられることを知り、深い感動をおぼえたという。愛のない相手に助けを求めるのは、屈辱だろう。しかし神は助けを求める者を受け入れ、自分を犠牲にしても助けてくださる。天地の造り主に助けを求めるのは、否定すべき弱さではなく、神に似せて造られた人間の必然なのだ。
3. 主はあなたを守る方
動物の飼い主はペットにせがまれて養うのではないが、ペットに求められるのはむしろうれしい。神も私たちが求める前から昼も夜も守ってくださっている。心臓は眠る間も停止しない。また私たちの助けを求める祈りや感謝や信頼を喜ばれ、さらに祝福を与えてとこしえまでも守られる。すなわちご自分を信じる者に永遠のいのちを与えてくださる。弱さを認め、造り主に助けを求め、平安を得ることができる。
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1.靴屋のマルチン
今日の聖書箇所はトルストイ作「愛あるところに神あり」(通称「靴屋のマルチン」)の中に出てくる。妻子を失い生きる希望を失ったマルチンは、神に与えられた命だから、命ある限り神のために生きよと諭され聖書を読むようになる。ある晩夢でイエス様が自分の家に来ると聞くが、実際に出会うのはこごえた老人・貧しい女・行商女と盗んだ少年。マルチンは彼らをもてなしたり仲裁したりして助けたが、その晩、それら助けた人々は自分だというイエス様の声を聞き、この聖書のみことばを思い出す。
2.生きる意味はどこに
愛する家族を亡くした者は命の意味をよく考える。マルチンの見出した慰めは、息子の死の意味は説明しないが、自分の生の意味はよく教える。愛の対象は決して家族だけではない。自分の愛を必要とする人への愛なら、どんな人への愛も神は喜んでくださる。たとえ体が動かなくなっても、とりなしの祈りは最後まで可能なのだから、人生の意味のなくなるときはない。
3. 最も小さい者たちのひとりに
「小さい者」とは目立たないが、自分はその人の必要に気がついており、助けることも可能である人。しかも「ひとりに」とまで言われるので無理難題ではない。しかし「しなかったのは」とも言われている。「ひとり助けたからノルマ達成」と思うのは自己欺瞞。真実な愛だけが心に平安をもたらすことを覚えよう。
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1.主に捕らえられて(22-23a)
パンのことで言い争い、主に責められた弟子たちが着いたところがベツサイダ。ここはガリラヤ湖の北東。そこで盲人に出会う。主はこの人の癒しのため特別なことをされた。そのひとつが人々から引き離すこと。これまでのように多くの人の前ではなく、この盲人との一対一の交わりを持たれる。それは様々な世の人の声から離し、御自身との大切な交わりを与えるため、真理に導くため。主はしっかりと私たちを捕らえ、助けて、真理に導いてくださる。
2.主が手を置いて下さる(23b)
人々の願いは「さわる」こと。しかし主は手を当(置い)てくださる。これは旧約で身代わりのいけにえに罪を負わせることや任職(申命記34:9)を思い起こす。私たちの汚れに代えて主の聖さが与えられる。罪の汚れに曇った目にきよい神のみこころは映らない。主は私たちを導いて御自身の聖に預からせてくださる。
3. 二度の癒し(23-25)
一度のみわざで完全に見えるようにならない。これが私たちの現実。すばらしい告白をしたのに実は良く分っていなかったということは弟子たちだけのことではない。しかし大切なことは「だから自分をだめだ」と思ったり、あきらめるのではなく、主にとどまり続け、心の目を開いていただくこと(エペソ1:18)。主は盲目の私たちに対して、私たちの生涯を通じ、目を開こうと捕らえてくださったのだから。
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1.召された
パウロは「主の囚人」と自己紹介する。主の計画で囚人となっているのだと。彼は自分の幸いより主のみこころを優先する。それはパウロだけでなくキリスト者はみんなキリストに召された者なのだから、主のみこころを求めるべきなのである。実は自分を優先してしまう事が私たちの問題。罪の根本は「自分勝手」。
2.愛を持って忍び合う
自分勝手を捨てるとどうなるのか?まず謙遜。相手を自分より優れていると思うこと。次に柔和。おだやかに人に接すること。これらの「限りを尽くし」という表現は、意思を持ってあえてこれらを行おうとする姿勢。寛容は広い心で受け入れること。時には相手にも問題があるが、「愛をもって互いに忍び合う」。このような交わりには自分勝手はない。
3. 平和のきずな
そのような愛はなかなか経験できず、たとえ良い関係になっても一時的に終わることが多い。なぜか?「平和のきずなで結ばれ」ていないからではないか。平和の君はイエス様。「御霊の一致」ともあるように、私たちが主を第一とするところからずれ、自分の熱心さを見せたいという自分勝手な思いで愛を行おうとするなら、そのようなみせかけの愛は長続きしないのだ。イエス様に召されているという原点に帰ろう。
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