

1.キリスト・イエスの囚人(1)
I. キリスト・イエスの囚人(1)
なぜパウロは自分をキリストの囚人と呼んだのか。第一に実際に彼はローマで囚人だった。しかし皇帝の囚人とは自称しない。なりゆきで囚人となったのではなく異邦人宣教という主の計画と自覚している。だから誇りを失わず、与えられている時を用い書簡執筆にも励んだのだ。
2. 奥義(3-5)
神は段階的にみこころを明かされた。それまで隠されていてようやく表された真理を奥義という。パウロは自分に示された奥義を人々に知らせるため書簡を執筆した。その書簡が新約聖書の重要部分となった。
3. ともに約束にあずかる(6)
パウロの伝えた奥義とは、ユダヤ人も異邦人も全ての人がイエス・キリストを信じて救われるとなるということ。それまでは異邦人もユダヤ人のように律法を守るべきという誤解があった。私たちにも「まじめな生き方をした人と、たとえ悔い改めたとしても罪深い過去を持つ者とでは、神から受ける報いは異なるのではないか」といった先入観があるのではないか。マタイ20:1-16参照。このたとえは自分を少ししか働かなかった者に当てはめないと感謝できない。自分は他の人よりよくやっているという自負が落とし穴。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私(8節)」と思う謙遜が深い感謝を生むのだ。
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1.永遠のいのちを受けるには(25-28)
「死後にどこに行くのか」という根源的な問いは、誰もが持っている。しかし「何をしたら」と言うのは永遠の命を努力の報酬と考えているから。そこでイエスは「律法を実行せよ」と答えた。大切なのは「実行」。正しい教えを知っていても実行しなくては無意味なのだ。
2. 自分の隣人とは誰か(29-36)
自分の正しさを示そうとした人は「私の隣人とは?」と尋ねた。イエス様は良きサマリヤ人の話の後「誰が隣人になったか」と問われ、助けを必要とする人にあえて手をさしのべることこそ隣人愛だと教えた。美談の模範には簡単には従えないと思う人が多いだろう。しかしこの話に「極端すぎる」という反発はなかったので、実話かそれに近い話なのだろう。イエス様はサマリヤ人の愛の行いにご自分の愛との共通点を見出された。イエス様も私たちをあわれみ、あがなうため進んで十字架にかかってくださったのだ。
3. あなたも(37)
「自分も」と具体的に考えると、あわれみの心のない自分の罪深さを知ったり、少しでも愛の行いができれば喜びを体験する。これは他人事ではない。「あなたも」なのだ。日々愛の実行を心がけることで、私たちは心砕かれ、真の助けを神に求める者へと変えられるのだ。
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1.平和を宣べ伝えたキリスト(17)
キリストは救いの業を行うだけでなく、その救いを伝えることもしてくださった。道を用意したのだから後は勝手に来なさいというのではなく、救い主自らが宣教者ともなって道を教え、限りなく私たちに近づいてくださるのだ。何と言うへりくだりだろうか。
2. 父のみもとに近づく(18)
キリストの召天後、父によって派遣された聖霊(ヨハネ14:16)は、弟子たちを用いて宣教の業を継続され、現在に至っている。キリストを信じた者は聖霊に導かれて父なる神のもとへと導かれるのである。御子をお与えになった神は、さらに聖霊を与えて下さった。なんと神は恵み深いお方なのだろうか。
3. 神の家族とされる(19)
同じ国に住んでいても、その国の国民と在留異国人は区別される。旧約聖書は在留異国人に寛容であるよう勧めるが、それでも割礼を受けてユダヤ人とならない限り、礼拝規定などにおいては区別があった。その区別はキリストの平和宣言によって廃棄される。キリストを信じる者は全て神の子どもとされ(ヨハネ1:12)、神の家族となる。神は何と寛容なのだろうか。
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1.望みも神もない(11-12)
もしも将来に何の希望も持てないなら私たちの人生は空しい。だから、必ず訪れる「死後」という将来に望みがあるかないかは、現在の人生にとっても極めて重要な問題。死後の命をも支配する神を信じない者は、死後への確かな望みを持つ事はできない。(ルカ12:4-5参照)
2. 敵意が廃棄される必要(13-15)
神は私たちの人生を評価し審判を下す。罪を憎む神の聖さを満足させなければ天国には行けない。神の律法を守らない、罪を負ったままの人間は、神にとって敵意の対象。罪は犠牲によってあがなわれる。しかし動物の犠牲は真に人間の罪をあがなえはしない。また生け贄が人間であっても、罪を持つ者は他者の身代わりにはなれない。だから敵意を廃棄する犠牲として、罪のないキリストの血が流される必要があった。
3. 神との平和(15-16)
父なる神の間に立たされ裁きを受ける時、キリストは彼を信じる者と父の間に立って、「私はこの人の代わりに死にました」と、ご自分の十字架を理由に和解を成立させてくださる。キリストを信じる私たちは、もはや恐れる事なく「父よ」と祈り求める事ができ、天のみ国と言う最大の希望を持つ事ができる。
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1.二重の意味で神の作品(8,10)
私たちはもともと神の被造物。神は全てのものを造り、特に人間は神のかたちとして造られた。しかし人は神のかたちとしての自由な意思を、神に背くことに用いて、裁かれるべき者になってしまった。それなのに、神は人を罪の裁きから救うため、ひとり子イエスを十字架にかけ、罪を贖われた。これを信じるものは新しい命を与えられ神の子とされるので、信じる私たちは二重の意味で神の作品なのである。
2. 救いは行いによらない(8-9)
神は私たち行いを評価して救うのではない。神の基準は高すぎて、罪ある私たちは評価に値しない。救いはあくまで恵みであり、賜物・すなわちプレゼントである。プレゼントは代価なしにいただくべきもの。代価を払おうとするのはむしろ神に失礼。ただ感謝して救いをいただこう。
3. 救われてこそよい行いに励める(10)
良い行いは大切。主イエスによって救われ罪を赦されてこそ、私たちは良い行いに励むことができる。主イエスは「隣人を愛すること」は、「神を第一とすること」と同じくらい大切と教えられた。これは車の両輪のようなものであり、片方だけではうまく進まない。まず主を信じ、信じた者は神の備えた良い行いに励もう。
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