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1. 死んでいた(1-3)
私たちに救いが必要なのは、霊的に死んでいるからである。霊的死の特徴は不従順。何が罪かを知っていながら、道徳に不従順なので、肉欲を優先しようとする。道徳に対しては、「これくらいみんなやっている」と弁解し、肉欲を満たすのは人間として自然なことというような都合のよい理屈をこねる。それでいて、他の人が自分に対して犯す小さな罪さえ赦せない。
2. あわれみ豊かな神(4)
聖い神にとって罪は滅ぼすべきことのはずだが、それをあえて赦そうとするのが「あわれみ」。「かわいそう」と思い、チャンスを与えようとしてくださるのだ。そして、私たちの身代わりを滅ぼすことで赦そうとする。それがキリストの十字架。これを信じるものは赦され救われる。
3. キリストと「ともに」生かし(5-6)
赦された私たちは、一人で生きるのではない。キリストによって救われたのだから「キリストとともに」生きるのである。「どうせ悔い改めれば赦されるから」と肉欲を満たそうとするのは不従順への逆行。神の助けなしには悔い改めもできないことを見落としている。従順になって、キリストと「ともに」いることを選択しよう。そうすればキリストとともによみがえらせていただき、ともに天のところにすわらせていただける。
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1. 父なる神の力の偉大さ(20)
神は「全能の力」を持っておられる。その力の偉大さは、キリストによって私たちに明らかに示された。私たちは直接神を見る事ができないので、まずキリストは人間になって下さり、私たちのために死なれ、死を克服してよみがえり、天の父の右の座に着かれた。私たちが神の偉大さを知って信じる事ができるように、実際にご自分の力を示されたのだ。
2. かしらであるキリスト(21-22)
キリストは父なる神によって、全ての被造物を支配するかしらとされた。キリスト以上の行いをした者はいない。彼ほどの自己犠牲は他にない。彼ほど深いみ教えを説いた方は他にいない。彼ほど愛を示した方はいない。神が栄光を与えるとするなら、キリスト以上に栄光を受けるべきお方は他にはいないのだ。
3. 私たちのかしら(23)
そのようなすばらしいお方であるキリストが、教会のかしらなのである。私たちが教会の一員となるなら、キリストはこの私のかしらとなる。どんな立派な体であっても、健全な頭脳がないならむなしい。反対に体に弱さがあっても、健全な頭脳はおぎなう方法を見つけだす。キリストなしの人生は頭脳なき体のようなもの。キリストに従う生き方は、最高の頭脳を得る事。
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1. 神を知るため(17)
私たちは互いのために祈る必要がある。パウロはエペソの人々のため祈っていたが、その求めの中心は霊的祝福(3)であった。17節に「神を知るための知恵と啓示の御霊」とあるように、聖霊の助けなしには真の神を知ることができない。そして人間の尊厳は「神のかたち」という点にあるので、自分の存在意義を認めるにはまず真の神を知らなくてはならないのだ。
2. 心の目(18)
聖霊の助けによって心の目が見えるようになる。パウロは心の目が開かれ、神を冒涜していると思っていたイエスが実は本当に神の御子だと明確に知り、裁かれるべきは実は自分の罪なのだと悔い改めた。同じ事柄を全く違うように見ることで、価値観が変わる。幸福感も変わる。死生観や人生観も変わる。神の与える「永遠のいのち」こそ最高の価値。最大の幸福。死も恐くない。
3. 神の力の偉大さ(19)
神の偉大さを知るなら、人生で経験する困難は決して大きすぎないことを信じることができる。破壊された地球環境を元に戻すことは困難に思えるが神は元々地球を創ったお方。人間同士の争いをなくすことは困難に思えても、神は罪を十字架で滅ぼすお方。自分自身を聖く保つことは困難に思えるが、神はこの私を愛してくださり、明日への希望を与えてくださる方なのだ。
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