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礼拝メッセージ(2007年5月)

今月のみことば
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ人への手紙1:5)



2007年5月27日

國分広士牧師
聖書箇所:使徒の働き 2章36節-42節
宣教題:「罪の赦しの洗礼」
國分牧師

1. 聖霊による宣教

ペンテコステは聖霊が弟子たちに下られた日。この日から、聖霊は弟子たちを用いて力強く宣教を開始された。聖霊は三位一体の神であり、イエス様とは深い愛の絆で結ばれている。その愛するイエス様が、人の罪を負って死なれたことは聖霊にとってどれほど大きな痛みであった事か。人々の罪を指摘するペテロの説教は、聖霊ご自身の叫びなのである。

2. 心を刺された人々(37)

キリストは私たちの罪を負って死なれた。自分の罪がキリストを死に追いやったことに気づいた人々は心を刺され「どうしたらよいのでしょうか」と尋ねた。この素直な導きを求める姿勢が大切。弁解をしたり、自分でつぐなおうとし続ける限り、へりくだって助けを求める心にはなれない。主のご真実を信じて、素直に導きを求めよう。

3. バプテスマ(洗礼)の意義

ペテロは「罪を悔い改め」「イエス・キリストの名で」「洗礼を受ける」よう勧めた。Iペテロ3:21には「バプテスマは…正しい良心の神への誓い」とある。救いを結婚に例えるなら、悔い改めは婚約、信仰告白は婚姻届、洗礼は結婚式のよう。婚姻届だけでも成立はするが、婚約も結婚式も切り離すべきではない。罪を赦しを求めるなら、洗礼へと進むことを決意しよう。



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2007年5月20日

國分広士牧師
聖書箇所:エペソ人への手紙 1章7節-14節
宣教題:「この方にあって」
國分牧師

1. 罪の赦しを受ける(7)

「この方にあって」という表現が繰り返される。まず私たちはこの方にあって罪の赦しを受ける。キリスト以外の他のものによっては罪の赦しはない。彼だけが私たちの罪の身代わりに死んだからだ。したがって、キリストにより頼まない教えには罪の完全な解決はない。

2. いっさいのものが一つに集められる(10)

キリストは全てを造り全てを支配される方。キリストを信じる者も信じない者も、全てのものがやがてこの方のみ前に集められる。どんな偉大な宗教家もキリストの前に集められる一人にすぎない。その時に喜んでキリストのもとに集められる者でありたい。

3. 御国を受け継ぐ者とされる(11)

キリストを信じる者は神の御国を受け継ぐ者とされる。天国は決して実体のない「あの世」ではない。今と同じように新しい肉体を持って神とともに生きるすばらしい世界。その国の相続者となることこそ、今の人生に与えられている意義。

4. 福音を聞く(13)

私たちが天国に行けるよう、キリストを信じるように勧める教えが「福音」。この福音を聞けるように助け導いて下さるのもキリスト。そう考えると、真に大切なものは、全てキリストにあってもたらされるのだ。



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2007年5月13日

高松和代伝道師
聖書箇所:マルコの福音書 8章1節-26節
宣教題:「悟らないのですか」
高松伝道師

1. 四千人のために(1-10)

再びパンの奇跡。前の五千人と同じパンの奇跡がここ異邦人の地でも行われる。スロフェニキアの女性との会話に「パンくず」とあったが、イスラエルの地と同様に溢れるほどにお与えになる。ここで表されるように主は、貧しい者を深くあわれみ、満たしてくださるお方。

2. 今の時代への嘆息(11-12)

すでに主の癒しのみわざ、パンの奇跡のうわさは広がっていたはず。パリサイ人たちは知っていながらあえて、自分たちを納得させる「天からのしるし」を見せるようにと議論を仕掛ける。それは神の恵みに心を閉ざし、反抗的に振舞う姿。自分の判断を第一とし、それに頼り、心かたくなにして、神の恵みを受け入れないこの時代の人々を主は深く悲しまれる。

3. まだ悟らないのですか(13-21)

主はパリサイ人を悲しまれたのではなく、今の時代を悲しまれた。心がかたくななのは彼らだけではない。弟子たちも同じ弱さを持っている。だから小さなパン種のようでも気をつけるように警告される。だが彼らは目の前の問題だけに心を向けてしまい、恵みの主がおられることを見失う。「まだ悟らないのですか」繰り返される警告は、恵みの主の深いあわれみに盲目でかたくなな私たちへの言葉。あわれみと恵みに心を開かせる招きの言葉。



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2007年5月6日

國分広士牧師
聖書箇所:エペソ人への手紙 1章1節-7節
宣教題:「子にして下さる神」
國分牧師

1. 「キリスト」

今日の聖書箇所で最も繰返し用いられる言葉は「キリスト」。自分はキリストの使徒であり、宛先はキリストの忠実な聖徒であるエペソ教会。願いはキリストの恵みと平安が宛先にあること。パウロの関心の中心は、自分自身でも手紙の宛先のエペソでもなく、キリストなのであった。

2. キリストによる祝福

キリストは私たちをご自分の血によって罪の刑罰から
贖い、罪の赦しを与えて下さった。その上で、父なる神は、私たちをご自分の子にしてくださる。もちろんそれは無理矢理にするのではなく、私たちの同意を得て実現する事である。私たちがキリストを信じることは、罪の赦しと、神の子にされる特権が与えられるという祝福をもたらすのである。

3. 父をほめたたえるため

神の祝福の計画は「世界の基の置かれる前」(4)からの計画であった。神は時間を超越しておられる。人間が罪を犯したので仕方なく救いの計画を建てたのではなく、私たちを子にしようと「愛をもってあらかじめ定めておられ」(5) たのである。そこで、私たちがキリストを信じる事は単に私たちが祝福を受けるだけでなく、父なる神がほめたたえられるという事につながる。父に栄光をお返しするためにも、キリストを信じよう。



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