

1. 存在の意義
私たちは何のために存在しているのだろうか。自分の存在に意義を感じないと「いっそいないほうが良いのではないか」と悩む。そのような問いには解答はないというのが一般論であり、悩むより人生を謳歌するほうが良いと考える。しかしそのような心の整理の仕方では、重大な苦しみの経験には意義を見出せず「ポックリいくのが一番良い」という結論になる。これは死後の世界、特に裁きを否定する現世主義の限界である。
2. 地の塩・世の光
主イエスは、私たちの存在意義は、地の塩・世の光となることだと説く。もともと私たちは「神のかたち」として造られたのだから、神のすばらしさを表現することに意義があるということである。それゆえ塩けをなくしたら何の役にも立たない。「花火売り場でライターで遊ぶ子どもを見た」その目撃者が、その場で大声を出して止めさせれば火事にはならなかった。
3. 父をあがめるため
光を失わせ塩けをなくすのは罪。罪は私たちに存在意義を失わせ、裁きを恐れるあまり「もともと存在意義などないのだ」と説いて現世主義へと向かわせる。罪を悔い改め、真の世の光である主イエスによって赦していただき、もう一度「地の塩・世の光」となる望みをいただこう。
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1. 主の臨在を経験する者
今月のみことばは、主の臨在の約束だが、それは宣教命令に続く約束である(マタイ28:18-20)。ということは、主を愛し主の救いを宣べ伝える者こそ、主の臨在を必要としているのである。主への愛と主から宣教の使命を与えられる事例として、ペテロの経験を学ぼう。
2. 3度尋ねる
主はペテロに愛しますかと3回尋ねた。もし自分がこのように尋ねられればどう返事するだろうか?「あなたがご存知です」というペテロの答えは積極的に答えたいが豪語もできない心情を表している。同じことを3度問われるのは非常につらいが、主を3度否んだことを忘れていないことの表れであり、私たちの言動に主が期待しておられることを示している。
3. 愛
「愛」の問いをギリシャ語で見ると微妙な変化がある。主は2度目まではアガペー(=神の愛)を尋ねるがペテロは自分の限界を認めてフィレオー(=友情)で答えた。3度目の主の問いはフィレオー。2度アガペーを尋ねることで原則を示しつつ、そこに達し得ない私たちに歩み寄られたのだ。そしてフィレオーでしか答えられないペテロに「わたしの羊を飼いなさい。」と宣教命令を与えてくださった。自分のささげられる最善を主は喜んでくださるのだ。
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1. 私は漁に行く 1-4節
弟子たちは主の指示通りにガリラヤへ行った。しかし7人だけ。ペテロがリーダーシップを取って、他の弟子と共に一生懸命に働いたが結果が良くなかった。自分の職業さえもうまく出来なかった。(ヨハネ15:5を参照)
2. 主ご自身が岸辺にいた 4-6節
主は弟子たちがいる所に既にいた。彼らに声をかけた。「子供たち...何もありませんね。」主は彼らの体のことも魂のことも配慮してくださった。主に言われたとおりにすれば弟子たちも私たちもすばらしいことが体験できる。
3. 必要なものが備えられた 7-14節
ペテロとヨハネの違いが明らかになる。ペテロが以前に体験したことを思い出した。(ルカ5章)自分に再スタートが許された。
焚き火も食べ物もすべて必要なものはそろっていたが、主は「今とった魚を持って来なさい」と言われた。「153」の数字は意味があるか。主には私たちの力が必要なのではない。それなのに私たちを用いて、私たちの働きを祝福してくださる。
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1. ヨハネはイエスを包んでいた布を見て信じた
主イエスの復活についての客観的な情報は、墓が空けられ、イエスの遺体は無くなったということであった。ペテロとヨハネも確認したが、その際にヨハネはイエスに巻かれていた布が抜け殻のように落ちていたのを目撃し、主イエスの復活を信じたのである。
2. マリヤは名前を呼ばれて信じた
マグダラのマリヤは復活の主イエスに会っていながらすぐには主だとわからなかった。イエスは死んでいると思っているので生きている人をイエスとは思えなかったのだ。「マリヤ」と自分の名を呼ばれてやっと気がつき「ラボニ(先生)」と応答することができた。私たちも自分個人が主に覚えられていると気づかないと、主を信じることはできないのである。
3. 傷跡を見て信じた
トマスは復活など信じられない、傷跡を見て触れなければ信じないという常識的な人間の反応を示した。他人のそら似か幻だと疑ったのである。人間は自分の理解を超える事柄について、もっともらしい説明をつけたがるものなのだ。彼が主イエスを神と信じたことは、復活の事実を確かめる結果となったが、主は「見ずに信じる者は幸いである」と言われた。
4.イエスをキリストと信じるために福音書は書かれた
現代の私たちは当時の弟子たちのように直接主にお会いすることはできないが、悲観する必要はない。時代を超え空間を越えて、どんな時代の世界のどこにいても信じることができるようにと、聖書が与えられているからである。私たちは聖書によって、弟子たちの経験を共有することができる。そして、みことばを読んでイエスをキリストと「見ずに信じる者は幸い」なのである。
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1. ペテロの心意気と無鉄砲な行動
ペテロはエルサレムで主イエスと共に死も辞退しない忠実で勇気あることを語って意気込んだ。彼は自負心に満ち他人の弱さに腹を立て、無鉄砲な行動に出たのである。
2. サンヘドリンの審問とペテロの否認
主イエスはサンヘドリンで審問を受けた。偽証が立てられたが一致を見ることができなかった。そこでカヤパは誘導尋問をして、主イエスが神を冒涜したものとし、死刑の判決を下したのである。
一方ペテロは祭司の女中から主イエスの仲間であることを指摘され彼を否んだ。その時、ペテロは主イエスの予告を思い出し号泣し、心から悔いたのである。
3.信仰とは愛の眼差しを見つめること
ペテロはどうして泣いたのだろうか。
彼が主イエスを否んだ後に、主が振り向いて彼を見つめられたからである。彼は大変な失態を演じたが真心より悔い改めて主から赦しを受けた。彼は多くの罪を赦されたゆえに多く主イエスを愛すことができたのである。信仰とはペテロのようにあくまでも主イエスの眼差しを見つめることである。
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