

1. 困難
ピリピでの宣教中、パウロたちは突然困難に直面する。占いの霊に取り憑かれた女奴隷に「ほめ殺し」をされ、困り果てて霊を追い出すが、彼女でもうけていた主人たちに恨まれ言いがかりをつけられ、裁判もなしに鞭打たれ牢獄に入れられてしまったのだ。占いはサタンの力なので、たとえ当たっても結局は主に逆らい妨害する。しかし、この困難は恵みの苦しみだったのだ。
2. 牢獄の中での信仰
意気消沈して黙り込みそうな状況で、パウロとシラスが祈りつつ歌う賛美に、囚人たちもうるさがらず聞き入る。看守も聞いていたはず。やがてこの看守が救いを求めるきっかけは、獄中の態度によって与えられた。まだ地震は起きていない。彼らが解放される見込みは見えていない。体の傷の痛みで寝付けもしない。そのような逆境時だからこそ、主イエスの苦しみを思い起こして、主の足跡に従おうとして祈り歌っていたのだろう。彼らのうちにある希望がこうして明らかにされ、主をあかしする結果となったのだ。
3.救われるためには
突然の大地震。とびらだけでなく鎖も解けるのは神の力。他の囚人たちも逃げなかったのは、神を恐れたからだろう。早合点した看守は自害しようとするがパウロに止められ、ひれふした。神に出会ったと彼は感じたのである。それで「救われるためには何を?」と素直に尋ねる思いがわいてきたのである。「主イエスを信じなさい。」救われるためにはあかしやみことばによって主に出会うことと、出会った主イエスを受け入れ信じる事が必要なのである。
一覧表に戻る


1. なくてはならないもののため
「何かがんばれるものがあれば」と人は思う。確かにどんなことであっても、何かに打ち込む姿は美しいし、本人にも満足感がある。しかし、その打ち込んでいる事柄が「なくてはならない」ことなのか、「なくてもいい」ことなのかでは大きな違いがある。集中しているかどうか以前の問題として、方向があっているかどうかは決定的な問題。的違いな方向に一生懸命になる人は、どんどん正しい道から離れて行ってしまう。
2. 正しい仕事に励むことを教えられる必要性
正しい方向性が与えられたならば、集中して打ち込むことが良い。しかし正しい方向性さえ知っていれば励めるのではなく、障害も多くある。本当にこの方向でいいのかという迷いや、はかない罪の楽しみの誘惑や、努力を回避しようとする怠慢など。そのような障害を取り除くため、励む意義を再確認するために教え続けられる必要がある。
3.信仰の友の励まし
教えは信仰の友から受ける。パウロは信仰の友を励ますことを非常に意識していた。パウロはテトスとの再会を強く望み、その実現のためにテトスの代行者を派遣してまで再会を実現させようとしている(10-11)。また自分とは別行動をしているにもかかわらず、ゼナスやアポロといった伝道者の活動の心配をし、世話をテトスに命じるのも彼らを励ますため。さらにクレテにいるまだ見ぬ信仰の友への挨拶を忘れないのも信仰の友との交わりを重視している現われ。私たちも信仰の友と励ましあって主に従う歩みを続けよう。
一覧表に戻る

1. 有益なこと(8)
5-6節で神のあわれみによって救われたことが語られた。その信仰を持つ者が良いわざに励むようにと2章〜-3:2では具体的に良いわざの内容が語られた。これらのことを確信を持って語るようにパウロはまとめる。神を信じる人々が、良いわざに励むことこそ、人々に有益なことなのだと言う確信が大切。良いことと思いつつ確信までは持てないままでは、自分の内で信じることはできても、他の人に自信を持って勧めることはできない。
2. 無益でむだなもの(9)
愚かな議論とは、議論しても発展性がなく、相手を黙らせようとする口論に過ぎない議論。その具体例の「系図」とは、旧約の系図の名称の由来を神話的に語るようなもの。しかし空想に過ぎないので、どの空想が一番良いかを論争しても全く無益。律法についても、主イエスの贖いによる赦しという解決を離れて、どの守り方が良いかを論じれば無益。1:10で指摘されていた問題人物たちとの無益な論争は避けるべきなのである。
3.切り捨てるべきもの(10-11)
単に無益な議論をするだけでなく、キリスト教会内を分裂させる人々もいる。彼らには自己主張の問題性を指摘し、戒めることと、それでも自制して黙ることができないなら除名が命じられる。主のみことばに従うことよりも、自分の悟りの正しさを証明しようとするのが異端である。
真に正しい信仰なのかどうかは、実によって判断される。その人の信仰が、良いわざに励む原動力となっているかどうかが、確かめられるべき点なのだ。
一覧表に戻る

1. 以前は愚か者であった(3)
私たちも救いを受ける以前は、数々の罪を犯しながら、事の重大さに気づかない愚か者だった。従うより支配したがるが、いざ支配しようとするとどうして良いかわからず迷う。欲を満たす事が幸福に思うが、気づけば欲の虜。平気で人を悪く思う事ができる。それで憎んだり憎まれたりが日常的になってしまっている。それでも人との比較で善悪を判断するので、他の人々と大差ないから罪と思わない。それが愚かさ。
2. 神のいつくしみによる救い(4-7)
人間ではなく神の視点で考えれば罪は明らか。その愚かで罪深い人間を神はいつくしみ、その愛をみ子イエス様の十字架のあがないによって明確に現わされた。もしも人間の功績によって救いを与えようとするなら、愚かな私たちは誰も救われない。しかし、あわれみは功績のない者にも与えられる。最初から人間をご自分のかたちに造られた主は、私たちを愛してやまないお方なのである。
3.良いわざをすすんでする者へ(1-2)
愚かな罪人であった自分が神のいつくしみで救われたと感謝しているからこそ、その感謝を自分の生き方で表現する事には大きな意味がある。従うのは不従順を赦されたから。良い業は欲望の罪を赦されたから。人と争わないのは人を悪く思った事を赦されたから。優しい態度は、憎しみを赦されたから。本当に主イエスによって自分の罪が赦されたと信じ感謝していることが、良い生き方の原動力。主に感謝しよう。
一覧表に戻る
