

1. 取税人のかしらで金持ち
当時イスラエルはローマ帝国に税金を納める義務があった。ローマ帝国は現地人を実務に徴用し、必要額さえ納めればどんな方法で集金しようと問題にしなかった。それを悪用して、必要以上に集金し私服を肥やす者が横行したので、取税人は売国奴として憎まれていた。ザアカイは取税人の中でもかしらで金持ち。人々は彼を「罪人」と呼んでいた(7)。
2. イエスを見ようとした
ザアカイはイエス様に関心を持っていた。おそらく12弟子のひとりのマタイが取税人から弟子に召されたことを聞いていたのだろう。経済的に豊かになっても白眼視され、自分でも自分の生き方に疑問をもち、変われるものなら変わりたいと思っていたのではないか。
3.ザアカイの名を呼ばれる
イエス様は「ザアカイ」と名を呼ばれた。ザアカイは自分がイエス様に受け入れられたことに心から感動し喜んで家に迎えた。家にまでは迎えられないという可能性もあった。財産を築いた過去もご存知のはずなので、恥ずかしくて迎えられないと思ってもおかしくない。家に迎えたのは、自分を受け入れて下さる主を、ザアカイの側でも受け入れたという事を示す。
4.ザアカイの心が変えられる
ザアカイは主を歓迎するため、主の喜ばれる事をした。財産の半分をほどこし、もう半分を資金にだまし取った人に4倍にして返すというのだ。イエス様を迎えたザアカイにはもう不正の富は不要だったのだ。主を心に迎える者は、迎えた喜びで心が変えられるのである。
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1. ご自分の民
健全な生き方を求める理由は、イエスさまを信じ罪を贖っていただいた者は主の「民」(14節)だからである。主の民は、主の望まれる生き方をしたいと望むのである。それはこの世の思いとは異なる面がある。
2. 罪の時代にあっても
主の教えは、まず不敬虔とこの世の欲を捨てること、すなわち罪深い生き方を悔い改めることである。そして内面的な悔い改めは、実際的な生き方の変化につながるのである。「この時代にあって」とは、罪が支配する時代に流されるのではなく、違う生き方をせよと言うこと。自己アピールが盛んな時代にあっても慎み深くあること。罪の横行する中にあっても正しく生きること。ふしだらな生き方が蔓延する中にあっても敬虔に生活すること。望みを持てない世にあってもキリストの再臨という望みを持つこと。
3.良いわざへの熱心
キリスト者は否定的消極的な抑えた生き方をのみ求めるのではない。抑制は積極面の支えなのであり、「良いわざに熱心」になるための基盤である。良いわざをしようとしてもなかなかできなかったり、表面的になりやすいのは良い基盤がないからである。主にきよめられた者こそ、良いわざに熱心に励むことができるのである。
4.話し勧め責める
これらの教えは行為とともにことばで表現されなければならない。話しはキリストを伝える伝道、勧めはキリスト者を成長させる教え、責めは悔い改めに導くこと。どれも必要であり、黙ってはいけない。
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1. 若い人への勧め
年配者への勧めに続き、若者への勧めは「思慮深くあれ」だった。若者は心が柔軟であるが故に世の影響を受けやすい。しかし罪の世は悪い影響を与えるので、思慮深く正しいものとそうでないものを見分ける必要がある。思慮を教えるにはことばだけでなく、模範を示す必要がある。良いわざを示して見せてこそ、ことばに説得力が出てくる。この模範によって教える方法は、主イエスが示された方法であった。
2. 奴隷への勧め
キリスト教会には奴隷の信者もいた。当時の社会においては奴隷も一般的な存在だったのだろうが、社会的弱者である奴隷を無視せず積極的に勧めをするのは、どんな人も神の前には等しい存在と見るから。また、奴隷といえども自尊心を持つ人間が、主人といえど他の人間にすべての点で従うのには、少なからぬ抵抗感があるという現実を、理解し同情しているからこそこのような勧めがなされる。彼らのためにも牧会者の模範が必要である。
3.神の教えを飾る
主人に満足を与える奴隷となることには神の教えを飾るという意義がある。主イエスこそ、献身の模範者。その主に従う思いを、主人への忠誠によって示せるのである。ペテロも、横暴な主人にも従えと勧めている(ペテロ第一2:18-21)。「善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれること」だから。奴隷だけではなく、私たちすべてにとって、神の教えを飾るのは小さな献身の行いのひとうひとつなのだ。
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1. しかし、あなたは
「しかし」は直前の「口では言うが行いでは否定する者」であってはならないという問題意識を受けている。説教では良い教えを語りながら、プライペートな会話では神を汚すことを語るようでは、真に良い生き方を生み出しはしない。どんな小さな現実的実際的な課題にも神の教えを適用して、健全な生き方を求める姿勢をパウロは勧める。
2. 老人には
教会の中で模範者たる長老格の人々の実際的課題は「自制」。人は権威を持つと他者を支配したくなる。良い教えすら支配を楽しむ道具にしてしまう事がある。そういう人は責任を問われれば逃げ出すので言行が一致しない。権威を振り回すのでなく自制し謹厳で慎み深くしている老人こそ真に尊敬の対象となる。そういう人が存在するかしないかは大きな差。良い老人になろう。
3.年配の婦人には
彼女たちの課題は「敬虔」。これがないとすぐ悪口を言う。敬虔なふりをしているだけなら、陰で大酒のとりこになる。しかし敬虔な年配の婦人は若い婦人たちを支える存在。彼女たちは自分の経験から若い婦人をさとすことができる。若い婦人たちの実際的課題は家族を愛する事。これなくして彼女たちの幸福はない。妻の夫や子どもへの愛は自己主張でなく慎み深さによって表される。性的純潔。いきとどいた家事。母の優しさ。夫への従順。これらは幸福な家庭に欠かせないが、若い婦人たちの自己犠牲なくしては実現しない事柄。キリスト者の家庭が幸福でないなら神の言葉がそしられるので、実に重大な課題。
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