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礼拝メッセージ(2006年12月)

2006年12月31日

高松和代伝道師
聖書箇所:マルコの福音書 7章31節-37節
宣教題:「すばらしいみわざ」
高松伝道師

1. 異邦人の地で(31,32)

主はツロの女性に厳しい言葉をかけられたが異邦人を深くあわれんでおられて、異邦人の地をめぐりられる。再びデカポリスに来られみわざをされるが、その人は先の女性と違い主の言葉を聞き分けることも、信仰を語ることもできない望みのない人。だが主は見捨てられない、目を留めてくださる。

2. うめき祈る主(33-35)

主はこの人を連れ出し個人的に深く関ってくださる。彼の病むところに触れ、彼の心の深いところにある苦しみに触れられる。人に分かってもらえない、伝えることの出来ない苦しみを負っている彼のうめきと主はひとつになって祈られる(ローマ8:26、使徒7:34)。彼が縄目から救われ、開放されて自由になれるよう手を伸ばしつばきをして、彼と主はひとつになられた。

3.すばらしいみわざ(36,37)

主の力により口はなわめから開放され、閉ざされていた耳は覆いが除かれて聞くことが出来る(ローマ10:16,17)。主は耳を開き福音の言葉を理解できるようにしてくださるお方。人々は、この方のなさることは全て良い、と賞賛するが、これは創世記1:31節を思い起こさせられる。新しい創造の始まり(イサ゛ヤ35:5-6)である。主は私たちの内を知り、私たちのうめきとひとつになって、とりなしをし、新しく私たちを作り変えてくださる。疑い、つぶやきやすい私たちである。しかし主は心の中にあるうめきを知ってとりなしをし、私たちに聞き分ける耳と語るべき言葉を語らせて、新しく生まれさせてくださる創造主である。私たちの弱さを知って、恵みをもってお取り扱いくださる主に望みを置こう。



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2006年12月24日

國分広士牧師
聖書箇所:ミカ書 5章2節、ルカの福音書 2章1節-7節
宣教題:「約束の地で生まれた救い主」
國分牧師

1. ベツレヘム預言(ミカ5:2)

ミカはイエス様より700年位前の預言者。この預言は救い主の生誕地がベツレヘムだという意味だと、律法の専門家たちにも理解されていた(マタイ2:4-6参照。ベツレヘムはダビデ王の出身地であり、ダビデの子孫から救い主が現れることが預言されていた。)しかしヨセフとマリヤはナザレに住んでいたので、そのままでは預言は実現しない。ではどのように実現したのだろうか。

2. ローマ皇帝の命令(ルカ2:1-5)

マリヤは産み月が近いので、旅行をするにはタイミングが悪かった。ローマ皇帝からの住民登録の命令が出されたので、やむを得ずに出身地ベツレヘムに移動したのである。きちんとした宿もとれなかったということは、到着したその晩に生まれたことが推定される。ということは旅行中に産まれてしまう可能性もあったはずだが、ぎりぎりのタイミングでベツレヘムに到着できたのである。神のみわざは実に見事なタイミングで行われたのだ。

3.通常の出来事の中で実現した神の計画

預言の成就はどのようにもたらされたのか。マリヤたちが意図的に成就させようと画策したのなら、ぎりぎりのタイミングで移動はしなかった。天使がベツレヘムに運ぶというようなつじつまあわせの奇跡を起こしたのでもない。住民登録という現実的な必要に迫られ、気がつくとちゃんと預言は成就していたのである。人間の力によってではなく、また人間の生き方と無関係にでもなく、現実の人間の歩みの中に、主の確かな計画が実現した。現実の中にいる私たちにも、主の確かな導きがあることを信じよう。



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2006年12月17日

國分広士牧師
聖書箇所:ヨハネの福音書 1章14節-18節
宣教題:「恵みとまことに満ちた方」
國分牧師

1. 私たちは栄光を見た(14-16)

ヨハネは三年半イエス様と寝起きを共にしたので、実際の姿をよく見ることができた。その上でイエス様が「恵みとまことに満ちていた」と言う。人をほめる場合でも「あの人にも多少の欠点はあった」と言わないと誇張に聞こえるものだが、ヨハネは徹底的に主を賛美する。それは本当にすぐそばで主を見て、心から感動したからであり、何十年たってもその感動が消えるどころか、主への信仰が彼を生かし続けたからである。

2. 恵みとまことはイエス・キリストによって実現した(17)

律法は主のおきてを私たちに理解させたが、それを守ろうとする人は罪深さを自覚する結果となる。守りきれない私たちには恵みによる恩赦が必要。恩赦を与えるためにはそれに見合う理由が必要。その理由が主イエスの贖いの死。彼が代わりに裁かれたので全ての罪を帳消しにされた。神は罪の裁きにおいて「まこと」を貫き、恩赦という「恵み」を与えてくださったのである。

3.神を説き明かされたことば(14,18)

イエス様ほど神がどんなお方かを私たちにわかりやすく語ってくださった方は他にいない。有名な「放蕩息子のたとえ」(ルカ15:11-32) などは神の恵み深さと悔い改めのもたらす赦しのすばらしさを私たちに実にわかりやすく示す。感動的な説教も実際の生き方も十字架の贖いも、神ご自身を私たちに理解させるための「ことば」であった。ヨハネがイエス様から限りない恵みいただいたように、私たちもこの方を信じ豊かな恵みを受けよう。



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2006年12月10日

國分広士牧師
聖書箇所:ヨハネの福音書 1章1節-9節
宣教題:「すべての人を照らす光」
國分牧師

1. 初めからおられた方

主イエスについて語る場合、他の福音書は彼の人間としての歩みを語ることから始めるが、ヨハネは彼がまことの神であることから語り始める。人間としてのイエスばかりを見ると、悟りを開いてキリストにまで上り詰めたように錯覚する事もあるが、ヨハネはそうは言わない。主イエスは私たち被造物とは違い、初めからおられ、いないということがない、存在そのものであるお方なのだ。だからこそ、私たちは彼を神としてより頼めるのだ。

2. すべてのものを造られた方

主イエスは存在しただけでなく、私たちを造られたお方。すべてのいのちは彼から与えられた。私たちが信じるとき初めて彼が神になるのではない。私たちが認めなくても彼は神。彼はすべてを知っておられ、できないことは何もない。どんな良い教えを持つ宗教も、造り主ではないので根本的な問題までは解決できないが、造り主は私たち自身を造り直せる。

3.世に来られたまこと光である方

やみは罪。主イエスは私たちの心の奥底まで見抜かれ、隠された罪を指摘される。だからこそ罪の根源サタンは主イエスを滅ぼそうと十字架で殺したが、その死はかえって罪のあがないとなり、私たちに罪の赦しを与える希望の光となられた。存在そのものであり、造り主であるお方ご自身が、救い主となるため人間として世に生まれてこられたのは、実に偉大なことであった。ヨハネは主イエスのすばらしさ、神のご計画の偉大さに圧倒される思いで、まず主イエスの神性を語った。主イエスを信じよう。



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2006年12月 3日

國分広士牧師
聖書箇所:出エジプト記 34章1節-9節
宣教題:「主のものとして下さい」
國分牧師

1. 再度十戒を与える

主はモーセが砕いた十戒の石板を再度与える。前回との違いは主が切り出したのではなく人が切り出した板であること、また28節から神ではなくモーセの手で書いた文字であったことである。反省を忘れないようにあえて違えたのだろう。しかし、内容は全く同じなのである。

2. 主の宣言

主はご自分の心を表現された。それは恵み深い方であることと、罪は正しく裁かれること。恵みと裁きは矛盾するように感じるが、神にとってはどちらもゆずれない事柄なので、別々ではなく一連の内容として述べられた。しかし恵みは千代、裁きは3−4代と、大きな差があることを見逃してはならない。恵みの方が大きいなら、たとえ裁かれるべき罪人であっても、なお悔い改めることで赦される希望が残る。主は悔い改めを望まれているのだ。

3.主にお願いする

モーセは主の意図を悟り、急いでひざまずいてお願いした。その願いは主が自分たちとともにいてくださること。自分たちのようなうなじのこわい民とともにいれば神は必ず罪深い実態に怒られる。怒りが恐ろしいだけなら、神は少し遠いところにいていただきたい。しかし、主は罪を赦す恵み深い方だと宣言された。その宣言を真実と信じるなら、距離をおいて罪を自覚しなくなるより、むしろ神がいつも身近におられてその怒りで罪を示されたほうが安全なのである。神のものとなることは最も幸いな生き方なのである。



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