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礼拝メッセージ(2006年11月)

2006年11月26日

國分広士牧師
聖書箇所:出エジプト記 32章1節-20節
宣教題:「とりなしの祈り」
國分牧師

1. 待てないという弱さ

民はモーセが山に登ったままなかなか降りてこないために、勝手な行動をとり始めた。どれくらい待ったのか?24:18には40日とある。偶像作成に要する日数も考えると、モーセの姿が見えなるとすぐに民は不安を感じ始め、2-30日ぐらいで信仰の弱いアロンが偶像による人心の安定という安易な道を選択してしまった。「待つ」ためには信仰が必要なのだ。

2. 主の怒りとモーセのとりなし

主は十戒で偶像を禁じていた。しかも6、18節に示唆されるように偶像崇拝は不道徳と結びついていた。主は怒り(10節)イスラエルを滅ぼしモーセの子孫を代わりとすると言い出された。このときのモーセの応答は献身的。イスラエルを滅ぼせばエジプトから彼らを連れ出した主の名が汚されると訴え(12)、さらにかつて先祖アブラハムと結んだ約束のゆえに思い直してくださるよう嘆願した。このとりなしは主イエスとよく似ている。罪を犯している人々の背後にも、その人を何とか救いたいととりなすお方がおられる。

3.寛容な主のおこころ

主はモーセの祈りを聞き入れて下さった。しかしモーセ自身は堕落したイスラエルを実際に見て激しく怒った(19-20節)。ということは、主ほど現実を知らないモーセのとりなしを受け入れて下さっていたということ。そこから逆に考えると、40日待たせたのはイスラエルを試みるためであり、さらにモーセのとりなしの祈りを引き出すためだったようだ。そのようにして明らかに示されたのは、主の寛容さ。罪を激しく嫌う主は、罪の悔い改めやとりなしの祈りを真に喜ばれるお方でもあるのだ。悔い改めとりなす者となりたい。



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2006年11月19日

國分広士牧師
聖書箇所:出エジプト記 20章1節-22節
宣教題:「罪を犯さないため」
國分牧師

1. 神ご自身の与えた戒め

十戒は聖書中でも特に有名で重要。その第一の意義は、神がお与えになった戒めだと言うこと。知恵や経験で物事や倫理の法則性を見いだした人間の英知ではない。もしそうなら時代や社会状況の変化に対応しきれない古い価値観になってしまう。しかし十戒は絶対的な神の戒めなので、過去も現代にもそのまま適用される倫理基準である。

2. 神と人とを愛するということ

主イエスは律法の本質を神と人を愛する事だと教えられた。十戒も前半1-4戒が神を愛すること、後半5-10戒が人を愛することについての戒めであると理解できる(基礎知識参照)。ということは、表面的に規定を破らなければいいと言うことではなく、主を愛するのでそのことばを守る(6節)かどうかという、心の本音が問われているのが十戒なのである。

3.罪を犯さないため

神が十戒を語られた時、民はその声を聞いた(22節)が、それは雷のような恐ろしい「ことばのとどろき」だった(ヘブル12:19)。それでこれ以上直接神の声を聞くことを恐れ、モーセから間接的に聞くことを望んだ。モーセは、神への恐れは、罪を犯さないよう私たちの心を守ると教えた(20節)。真実に愛している者は、愛する者の心を傷つけることを恐れる。神と人とを愛するなら、神と人を恐れもするのだ。その恐れは、罪を犯さないよう私たちを守るのである。



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2006年11月12日

牧野直之牧師
聖書箇所:ヨハネの福音書 5章1節-9節
宣教題:「よくなりたいか」
牧野直之師

ベテスダの池で38年間、寝たきりの人は自分の問題の解決方法が分かっていると思っていました。ただ、自分にはその方法を実行する力とチャンスがないのだ、と思っていました。そのような考えと態度を持っている人に、主イエスは尋ねられました。「よくなりたいか」と。この質問には、どんなことが含まれているのでしょうか?                    
A) あなたは、自分が今、よくない状態にいることを知り、
   その事実を受け入れることが必要であるということです。
B) あなたは、自分がこの「よくない」状態に留まりたくない、と願いますか。
   この「よくない」状態から解放されて、「よくなりたい」という願いを持っていますか、
   ということが含まれているのです。
C) あなたは「よくなりたいか」と語りかけてくださった主イエスが、自分を「よくない」状態から解放し、「よい」状態にすることができる方だと、信じ、受け入れますか、というこ ことが含まれているのです。
主イエスは、私たち一人一人の全ての罪を背負い、私たちの身代わりになって、十字架にかかり、死んで、三日目によみがえり、私たちに「よくなりたいか」、「あなたは自分の罪を赦されたいか」、と問いかけておられます。私たちはこの問いかけにどのように応答するのでしょうか。
 次に、主イエスはこの男に「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と命じました。
私たちも主イエスの言葉を信じ、受け入れ、その言葉に従って起きて、新しいいのちによって歩きましょう。



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2006年11月5日

國分広士牧師
聖書箇所:箴言 3章11節-12節
宣教題:「父はかわいがる子をしかる」
國分牧師

1. 主にこらしめられることは幸い

主にこらしめられることがあります。アブラハムはウソでごまかそうとした事がありましたが、主はだました相手を用いてアブラハムを叱りました。叱られたアブラハムはふてくされず、反対に神さまを礼拝しました。このアブラハムは「信仰の父」と呼ばれ、まことの神様を信じる人の模範です。神さまは正しい信仰を持たせるために叱るのです。

2. 父はかわいがる子をしかる

私たちも自分の親に叱られる事があります。「怒る」のと「叱る」のは違います。良い親はただ怒りをぶつけるのではなく、こどもが正しい生き方に導くために叱るのです。子どもがかわいくなければ、叱るのでも怒るのでもなく無視します。叱ってくれるのは愛されているしるしです。反省して心からあやまれば、親はとても喜んでくれるのです。

3.主は愛する者をしかる

神さまも私たちを叱ってくれます。それは正しい信仰を望んでおられるからです。私たちを愛していなければ、反省のきっかけを与えるはずがありません。しかし私たちはみことばで悪い事に気がついたり、色々な困った出来事に出会って、神さまに祈って助けてほしいと思う事を通して、反省させられます。それは神さまの愛のしるしです。心から神さまに「私の罪を赦してください」と祈りましょう。神さまは悔い改める者を喜んでくださいます。



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