
1. スロ・フェニキアの女(24-26)
主イエスは異邦人の地に身を潜めるため来られた。しかしすぐ女性がやってくる。彼女は普通話すことのできない女性であり異邦人である。しかも「汚れた霊」につかれた娘を持つ。2重3重に「汚れ」を負う身であった。だがひるまず、あきらめず、執拗に主に願い続けた。
2. 主の拒絶と女の信仰(27-29)
主は前に「汚れた」異邦人を救っておられる。だがここではあえて沈黙される。とはいえ弟子が言うように追い返すわけでもない。そして「子ども」と「犬」に喩えて、彼女の望みを砕くような厳しい答えをされた。だが彼女は一見厳しいと見える主のことばの中に、豊かな恵みとあわれみを見出し、信仰を持って答える。主はその答えをほめ、彼女の願いに応えられた。
3.主を動かし、賞賛される信仰(29-30)
彼女の信仰は主を動かしたばがりでなく主に賞賛された。特徴は@期待し続ける信仰。A身を低くする信仰。彼女はそのような信仰を養われたからこそ、冷たく見える主のことばにも恵みと憐れみを見逃さず、期待し求めることができた。マルコはただ一度だけイエスへの呼びかけに彼女の「主よ」と言うことばを記している。それは私たちに、あきらめず謙遜に、豊かな恵みに信頼して「主よ」と御名を呼び求めることを求めているのではないか。また長く主が沈黙をされたのは、彼女をこの信仰にまで引き上げるためではなかったのか。だとすればあきらめず主の御名を呼び、主に聞き続けたい。
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1.主はきっかけをつくってくださった(3-8)
サマリヤの女は弟子たちがいない、主と個人的に会話できる機会が与えられた。しかも主の方から彼女に話しかけられた。主は魂を導くきっかけを自ら造られたのだ。そうでなければ彼女から主を求める事はなかっただろう。私たちはみな、主にきっかけを造っていただいたのである。
2. 主は永遠のいのちへの水を与えることができる(9-18)
「水」をめぐる会話から主は永遠のいのちへと話題を進める。ここで主が女に注目させたかったポイントは「心の内側からわきでてくるもの」だった。女の心にあったのは、過去に夫が5人いて6人目と同棲中というやましさだった。そのような罪を持つ者に、自分の問題を気づかせ、悔い改め永遠の命を求めるよう導く主は実に寛容である。
3.主は「わたし…を信じなさい」と言われた(19-30)
サマリヤの女の心は主を信じる方向へと傾くが、なお心の気がかりは残っていた。主はその気がかりをも解き明かすが、肝心なのは気がかりにいちいち答えていただくことではなく、主を信じるか信じないかであると確認された。どんな気がかりの点があったとしても、全てを明らかにするキリストがおられるなら問題はないのだから。
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1.民の応答(7-8)
モーセが主のことばをみな述べた上で「すると」とあるので、きちんと聞いた上での応答である。わけもわからずに応じたのでも、仕方なく応じたのでもない。もしそうなら心の本音はノーという可能性もある。神は心を見る。私たちは心の底から主のことばに従おうとしているだろうか。
2. みな行います(8)
「みな」ということばが繰り返される。神を信じ従うと言っても、それが全て(All) なのか、限定的(Part)なのかでは意味が異なる。通常、私達が従うと言うのは限定的であることが多い。たとえば社員は会社の勤務時間において上司に仕えるが、プライベートな部分に上司が口をはさめばルール違反と感じる。しかし、主はすべてを御存知なので、プライベートは存在しない。私たちはどうか。限定的にしか主に従わないという問題はないだろうか。
3.聖別(10)
主に従う誓いをしたイスラエルの民は、これから十戒などの主の言葉を具体的に聞く。その民に神が聞く準備として求めたのが聖別だった。聖別は悔い改めを表す。罪を悔い改めない心のままで神のことばを受け止めることはできない。心を責められる自己防衛として神に反発してしまう。結婚式の招きに「平服でどうぞ」とあるからと一人だけジーンズで出席した高校生は居心地悪そうだった。ふさわしい準備は私達を守る。悔い改めた心でみことばをいただく時こそ、限定的でなく、真に「みな行います」と応じることができるのである。
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1.聞き従うなら
神は自分にとって都合の良いしもべが必要なのではない。神は全能でありしもべなしでも何でもできる。それよりも「聞き従う」という従順さを望まれている。被造物にとって、造り主に命令していただきその使命を果たすのは最大の光栄、存在の意義を感じる恵みの経験である。そのような経験をする者は、人々に主の恵み深さをあかしできる。私たちも主に命令していただいた使命として、みことばを行う者になりたい。
2. 全ての国々の民の中にあっての宝
主は「祭司の民となる」と言われた。祭司とは神と人との仲介者であり、神の教えの教師である。真の神を知らず、偶像崇拝に走るこの世にあって、神の御心に従順に従い、神のみ教えを人々に伝え、人々が真の神を知って救われるようにとりなしの祈りをする祭司は世の「宝」なのだ。神はそのような宝をこの世に生み出したいと願っておられる。神は私たちをも「宝」にしたいと願っておられるのである。
3.全世界はわたしのものだから
神は全世界を支配しておられる。世界中の人々が神の関心の対象である。では全世界の人々は、神のみこころをどうやって知ることができるのか。神ご自身がご自分を啓示してくださらなければ、神については正確なことはわからないのである。その啓示の器として、イスラエルは召された。私たちも隣人に主を伝える器として召していただきたいと願おう。
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1.神の愛された世
真理を行うものはその行いが神によることが明らかあきらにされることを望み、悪いことをする者は、その行いが明るみにされることを恐れる。では私たちは自分の行いを明らかにできるだろうか。自分の悪い姿を見られて幻滅されることを恐れているのではないか。自分の心が責められるような、心を探られる場は避けようとするのは、光である神を嫌うこと。エデンの園で身を隠したアダムとエバと同じ。
2. 神の愛
神の聖さを嫌う「世」を、神はどう扱われるのだろうか。見捨ててもおかしくはない。しかし神は世を愛された。それも少し愛するのではなく、徹底的に愛される。愛の深さは相手への犠牲に表される。神は私たちにどれだけ犠牲を払われたのか。実にそのひとり子をお与えになったのである。世に対する裁きを神はご自分のひとり子に代わりに受けさせた、それが十字架刑だったのだ。それほど神は世を愛されたのだ。
3.神の与える救いとは永遠のいのち
人は心の慰めを得ると「救われた」と言うが、神の救いは単なる慰めではない。神の救いは徹底的。神の裁きが永遠の滅びなら、反対に神の救いは永遠のいのち。永遠のいのちは主イエスを自分の罪の刑罰を受けてくださった神のみ子と信じる全ての人に与えられる。「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」と明言されている。神の愛に応え、主イエスを信じて永遠のいのちをいただこう。
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