
1.神の愛された世
真理を行うものはその行いが神によることが明らかあきらにされることを望み、悪いことをする者は、その行いが明るみにされることを恐れる。では私たちは自分の行いを明らかにできるだろうか。自分の悪い姿を見られて幻滅されることを恐れているのではないか。自分の心が責められるような、心を探られる場は避けようとするのは、光である神を嫌うこと。エデンの園で身を隠したアダムとエバと同じ。
2. 神の愛
神の聖さを嫌う「世」を、神はどう扱われるのだろうか。見捨ててもおかしくはない。しかし神は世を愛された。それも少し愛するのではなく、徹底的に愛される。愛の深さは相手への犠牲に表される。神は私たちにどれだけ犠牲を払われたのか。実にそのひとり子をお与えになったのである。世に対する裁きを神はご自分のひとり子に代わりに受けさせた、それが十字架刑だったのだ。それほど神は世を愛されたのだ。
3.神の与える救いとは永遠のいのち
人は心の慰めを得ると「救われた」と言うが、神の救いは単なる慰めではない。神の救いは徹底的。神の裁きが永遠の滅びなら、反対に神の救いは永遠のいのち。永遠のいのちは主イエスを自分の罪の刑罰を受けてくださった神のみ子と信じる全ての人に与えられる。「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」と明言されている。神の愛に応え、主イエスを信じて永遠のいのちをいただこう。
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1.死後の状態をかいま見る
すでに亡くなられた方々の思いを聖書の中で考えることができるのがこの箇所。先達の思いを主イエスが代弁してくださっている。それも死者は天国か地獄かいずれかに行くのだが、その両者、すなわち、ハデス(地獄)と、信仰の父アブラハムのふところ(天国)の両者の思いを知ることができる。
2. 家族の救い
地獄に落とされた者は、まず自分自身の慰めを求めたが、慰めがないのが地獄なのだ。ならば願うのは、自分の愛する家族まで地獄に来てほしくないという事。たとえ地獄に落とされるような者であっても、せめて自分の失敗から教訓を得、家族が天国に行ってくれるならそこに慰めがある。もちろん天国の先祖は子孫が天国に来れば喜ぶ。結局、先祖に報いる生き方は、私たち自身が地獄の滅びではなく天国に行く生き方をすることである。
3.聖書の教えを学ぼう
「地獄に来るな」という願いを実現するのは「モーセと預言者」すなわち神のことばである聖書である。「もしも誰かが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら」という願いは主イエスの復活で実現するが、神のことばを聞こうとしない者は、主の復活も信じないので無意味なのである。アブラハムが代表する天国にいる先達の思いは、私たちが聖書を通して自分の罪を知り、悔い改め、主イエスの十字架で赦していただき、天国に入る者になってほしいと言うことである。先達の願いに応え、聖書を学ぼう。
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1.父母
父母とは自分を生み育てた自分を最も愛してくれる方々。たとえ人間的にどんな欠点があったとしても、子どもにとっては自分の父母の愛情こそ最善のもの。また私たちは全て、過去の人々の功績による社会に生きている。自分という存在を成り立たせた父母や先輩方への感謝がない人は、自分自身を否定している。敬老精神は命が与えられた事への感謝から出てくる。
2. 父母を喜ばせる幸い
子にとって父母が喜んで生きていてくれればそこに非常な安心を感じる。さらに自分が父母を喜ばせることができれば、それはすばらしい体験である。「正しい者の父」は大いに楽しむ。「知恵のある子」の母はその子を喜ぶ。子こそ親を最も喜ばせる存在であり、子がどんな生き方をするかが、親の喜びを左右する。私たちも喜びをもたらす存在でありたい。
3.真理を買え
父母を、また先輩方を喜ばせるのに必要なのは、良い生き方をもたらす「真理・知恵・訓戒」。それはまず幼子には父母から与えられた。教えられた本当に大切な事を忘れてはならない。また、単に父母からだけでなく「買え」と命じられている。たとえお金を出してでも真理を得よということ。最も大切な真理は聖書である。聖書を学び神の真理・知恵・訓戒を身につけ、罪を悔い改めて正しく愛情深い生き方をするなら、父母や先輩方はすばらしい我が子や後輩を喜び、「それこそ伝えたかったことだ」と感謝するだろう。
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1.客観的な批評
モーセのしゅうとイテロはイスラエル人ではなく、出エジプトも経験していない。それだけにモーセの様子を客観的に見ることができた。大勢の民が朝から夕までモーセのところに立ち続ける光景は、イテロの目には奇異に映り「きっと疲れ果ててしまいます。」と忠告した。また、単に問題の指摘だけでなく、解決策として「神を恐れ、力があり、不正を憎む誠実な人」を見つけて中間管理職に起用することを提案した。このような良い忠告は神の恵みである。
2. ひとりで重荷を負う弱さ
モーセとしては出エジプトの経験から、「民だけでは主のみこころは悟れない。自分が教えなくては。」と思い精一杯励んできたのだろう。しかしひとりでは無理とは悟らなかった。謙虚になれなかったり人を信頼できないと、ひとりで重荷を背負い込んでしまう。それではどんなにまじめにがんばっても、「あなたのしていることは良くありません。」と言われてしまうのだ。
3.忠告に従う幸い
忠告を受けたときこそ謙虚になるチャンス。聞き入れるのか、反発するのか。モーセは「お義父さんはイスラエルの事情を知らないのです。」と反論することもできた。しかし彼は忠告を聞き入れ、それを実行した。それはイスラエルにもモーセにも祝福となった。厳しい忠告を受けるときがあるなら、謙虚になって神のみこころを悟る機会が与えられたのだと考えよう。また、必要があるなら、イテロのように愛の心で真に必要な忠告を与える者として用いられたい。
【お詫び】今回は録音に失敗しました。ごめんなさい。(Webmaster)
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