
1.神の国
「神の国」とは、神が治める平和と愛に満ちた理想的な世界。しかし、そのことばの中心的な意味は「場所・空間」といった意味での国よりも、「神の支配」そのものを指している。神の支配の領域は限定されない。たとえこの世にいるままでも、神の支配の中にいる人は、すでに神の国を見ているのである。
2. 新しく生まれなければ
神は聖い方なので、神の支配に服するには、罪を悔い改めみことばに従う生き方が求められる。しかし、古いままの私たちは神の支配に服することができない。悪いとわかっていても罪を犯す。自分の罪を認めることがそもそも非常に困難。ルカ18:9-14の例話を読もう。パリサイ人は良い生き方をこころがけながら同時に人を裁いてしまう。それより自分の罪を悲しみ神のあわれみを求めた収税人が義と認められた。鉛筆の書き間違いは消しゴムで消せば書き直せるが、痕も残る。あまり強くこすれば紙が痛む。しかし造り直せばきれいな紙に再生できる。私たちも造りなおしていただく必要があるのだ。
3.永遠のいのち(15-16節)
造り直せるお方とは、もともと私たちを造ったお方以外にはありえない。造り主にあわれんでいただき、造り直しを求めよう。神の支配に服することができない、新しいいのちが必要な自分の罪を告白し、主イエス・キリストの十字架の死が自分の罪の刑罰の身代わりの死であったと、信じよう。その人には永遠のいのちが与えられることが約束されている。
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1.民の中での戦い
水不足は生命に直結する深刻な問題。深刻なときこそ、主を信じるかどうかが問われる。このとき人々は落ち着いて主を信頼するより、心にうずまく不満をモーセにぶつけて叫んだ。水がない事実は主がともにおられない証拠であり祈りは無駄だと考えたのだ(7)。確かに神に祈るより人間を攻撃するほうが結果を計算できるが、自分で自分の未来を決定しようとするのは高慢。物質的欠乏はむしろ信仰を喚起する機会である。岩からの水は、未来は人間の予測どおりにはならず、だからこそ主への信仰が大切なことを示している。
2.敵との戦い
次の問題は、アマレク人の攻撃。モーセはヨシュアに反撃を命じたが、戦闘は優勢になったり劣勢になったりなかなか決着がつかなかった。しばらくして気がついたのは、モーセが手を上げているか降ろしているかが優劣にそのまま反映している事実。そこでアロンたちが手伝って手を上げ続けさせ勝利を得た。
3.主に叫ぶ・手を上げ続ける
この二つの戦いは勝利の背後に何があるのかをよく示している。そこには主への祈りがあった。4節でモーセが主に叫ばなければどうなっていたことか。アロンたちの協力で手を上げ続けられなければどうなっていたことか。霊的な戦いは、最前線で戦う者だけの責任ではなく、常に背後の祈りの戦いであることを自覚しよう。なぜなら全ては主のみこころであり、主は人々の祈りを喜ばれるお方だからである。
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1.毎日食べる分だけ
マナを食べるのは不思議な経験。それは毎日集めなくてはならない。明日の分までは集められない。多く集めたつもりでも実はその日の分しかないし、食べる量を減らして明日に残そうとしても傷んでしまう。ところが6日目にはちゃんと2日分集められ残しても傷まない。また、少ししか集められなかった場合も足りない事はなく、欲張って安息日に集めに出ても何もない。神はみごとにちょうどよい量を与えられた。
2.「ちょうどよさ」は主の知恵
人間はちょうどピッタリに不安を感じ、余裕を求める。しかしこのマナの経験は、主がちょうどよさにこだわっておられることを示している。主はどれだけの必要があるのかきちんと知っている。特に旅をしているイスラエルには余裕はかえって負担。また主ではなく「余裕」を信じるなら信仰の成長を妨げることになる。余裕が怠惰を生み勤勉をも損なうこともある。主は民全員がご自分を信じる経験になるようにと、ちょうどよく恵まれた。
3.日々恵みをいただきに行こう
主はマナを集めに行くように命じられた。毎日の祈りとみことばは、マナを集めに行くようなものである。日曜日に週一度の霊的食事では、霊的な飢餓感は解消しない。自分で聖書を読んでもわからないとあきらめることはない。「少なく集めた者も足りないことはなかった」のだから。主は必要な恵みを与えてくださる。その主の真実を信じて自分で恵みを取りに行こう。
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1.つぶやき
出エジプトの興奮がさめやらぬうちにイスラエルは食糧難に直面し、つぶやく。エジプトにいたときからつぶやきはあった(5:21参)。つぶやきの原因は高慢。この時も勝利で逆に「自分たちは特別だ」と高慢になっていたので、試練に直面した時にそれを謙虚に受け入れられず、主に従って飢えるぐらいならエジプトで奴隷でいた方が良かったと、恩知らずで短絡的な発言をしてしまったのだ。
2.つぶやきに応えられる主
イスラエルのつぶやきは主のみ業の意義を否定するものであり、無視されても当然だったのに、主は応える。恵みは求め方の善し悪しによってではなく、主の一方的なあわれみと計画によって与えられるのだ。しかし、つぶやかずに祈り求めた場合でも主は与えて下さっただろう。同じ祝福をいただくのなら、良い求め方のほうが素直に感謝でき、信仰も成長したに違いない。
3.主の栄光を見る
主のみわざには全て意味がある。マナ(31節)の奇跡の意味は主への信仰を試みるため(4節)。明日を知る主は試さなくても結果はわかるはずなので、むしろ私たち人間の方が試されて初めて己を知る。イスラエルを荒野に導いた主は最初から食料も与えるつもりだったに違いない。その神の真実を信じて期待して朝を迎える者は地に降ったマナに主の栄光を見るのだ。しかし信仰のない者には、どんな祝福も「ラッキー」にしかすぎず、感謝も反省もない。同じ現実をどう解釈し、喜びや悔い改めへと結びつくのかどうかは、信仰が決定するのだ。
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