
1.人の教えと神の教え(1-13)
パリサイ人と律法学者はわざわざエルサレムから来て、主の言動はユダヤ人として大切に守ってきたしきたりを犯していると責める。だが彼らは神への熱心を立派に装っていたが、言い伝えのために神の言葉そのものを軽んじ、拒んでいた。まさしくイザヤが700年前エルサレムの民と指導者を責めた(29:13)その通りに。
2.人を汚すもの(14-23)
律法学者らは異邦人など、汚れた人たちによって自分が汚されることを避けていた。それは自らを聖いとし、アブラハムの子孫であることを誇りにしていたから。だが汚れはすでに内側にある。心の汚れ、つまり悪い考えや思いは言葉となり、行為となって日々人を汚している。主は私たちの内側の汚れを指摘される。
3.主の言葉を聞く(14-18)
内なる汚れを聖めるには、みことばに聞かなければならない。みことばが心の汚れを知らせ、悔い改めに導き、聖めを与え、神の喜ばれるものへと成長させる。主を非難した人のように神のことばから迷い出ないために、へりくだって主イエスのもとにとどまる必要がある。弟子たちは群集に優ってはいない。彼らも主の語られた意味が理解できない。だが主は彼らにみことばの意味を理解させ、ご自身のいのちのことばによって彼らを聖め、養われた。主のもとにとどまり心を開いて聞き続けよう。主が引き寄せてくださったから。
一覧表に戻る

1.古い自分のままでは
どうしたら神の国=天国に入る事ができるのかは誰もが知りたいこと。神の聖さを知らないと、人間の間での評価を神も認めると思いやすいが、心の奥底まで見抜かれ、罪は徹底的に裁く神は「義人はいない。」(ローマ3:10) と言われる。ではどうしたら良いのか?それがわからなくて人々は駄目と知りつつもなお自分をコントロールして神の基準に達する生き方をしようと試みる。新生を求めるにはまず古い自分をあきらめることが必要なのだ。
2.新しく生まれるという望み
「新しく生まれる」ことができるなら望みがある。「生まれる」ということは受動的であって自力で成す事ではない。またいのちは与えられるものであって勝ち取るものではない。人にはできなくても、私たちを造ってくださった造り主は新しいいのちを与える事ができる。自分ではなくて造り主により頼む信仰こそ、新生の望みを生み出すのだ。
3.新しい命をくださるお方
聖書の最初である創造の記事においてすでに「いのちの木の実」のことが記されている。神は最初から人間に「永遠の命」を得させたいと計画されてきた。人間自身の罪によってそれは失われたかのように見えたが、神は主イエスの十字架のあがないによって再び永遠のいのちの望みを与えて下さった。私たちの成すべき事は、正しい選択をする事である。古い自分よりも神の真実を信じる事を選び取り、新しいいのちをいただこう。
一覧表に戻る

1.進み始めたイスラエル
前には海。後ろにはエジプト軍。動くに動けない状況の中で主は前進せよと言われた。雲の柱がイスラエルの後方に移動し、主は時間をかせいでくださった。その間に海の水が分かれて左右で壁になっている間をイスラエルは進んだ。それは勇気のいる行進。追われていなければできなかっただろう。災いはしばしば信仰の決断を引き出すために用いられる。
2.滅びに向かうエジプト
なぜエジプト軍は危険を冒して海の中まで追いかけてきてしまったのだろうか。彼らはイスラエルが渡れるなら自分たちも渡れると思ってしまったがそれは軽率な判断だった。彼らも左右の水の壁を見ていたはずなのに、そこに現されているイスラエルを守ろうとする「神の意志」を理解しなかったのだ。何を見ても自分に都合良く解釈する者は滅びに向かう。
3.大いなる御力によって
エジプトを出るだけでなく、追われなくなって本当に解放が実現する。海辺に打ち寄せられたエジプト人の死体を見て、イスラエルは追っ手が滅ぼされた事を知った。私たちの救いも、自分を縛る罪から一時的に解放されるだけでは不十分。罪の誘惑はまた迫ってくる。私たちはいわば紅海を渡る直前のイスラエルのよう。イエス・キリストを信じて、エジプトからは出る事ができた。しかし誘惑に迫られるとまたエジプトに帰りたくなる。その私たちに主は後戻りではなく「前進せよ」と言われる。主を信じて、進みだそう。
一覧表に戻る

1.何という事
イスラエルを追い出したエジプトはすぐに後悔して連れ戻そうと追跡してくる。奴隷労働が社会の基盤であったエジプトにおいて、突然奴隷なしの生活を経験するのは、ライフラインが断たれるような非常な不都合だったのだろう。しかしここで不都合を我慢するならエジプト軍全滅はまぬがれた。彼らは初子の死の教訓をむだにするべきではなかった。
2.恐れてはならない
イスラエルは軍隊が迫ってくるのを見て非常に恐れ取り乱した。自分たちの力では太刀打ちできない事は確かな事実認識ではあった。しかし彼らはエジプトで多くのみわざを行い解放してくださった主の力を信じるべきであった。パロもイスラエルも現実を見ているつもりであり、直面した問題を正確に把握していると思っていたが、彼らは知識のはじめ(箴言1:7)、すなわち一番知るべき「主の偉大さ」を理解していなかったのだ。
3.主ご自身が戦う
主はパロの追跡を用いてご自分の栄光を現す事を計画された(4)。それはおよそ人間が考えおよびもしない方法であったので、予測不可能であった。主のみわざはいつも人間の予測を超える。救いはもうそこまで来ている。にもかかわらずパロはおごり高ぶり、イスラエルはおびえて泣きわめいている。私たちも不安に襲われ行き詰まってしまったように感じる事がある。しかし主の守りがあるなら決して行き詰まらない(コリント第二4:7-11)。主を信じよう。
一覧表に戻る

1.過越・血のしるし
最後のそして最悪の災いは初子の死。その死をを過ぎ越させるのが、血の印だった。初子の死は最後の審判を、そして羊の血は主イエスのあがないの死を預言的に現している。主イエスを信じる者は裁かれない(ヨハネ3:18)。なぜなら既に血が流されているから。*血は命(創世記9:4)。
2.主の裁きの時=救いの時
その時は11:4で予告されていた。「真夜中」と予告されたそのとおりに主はエジプト中の初子を一気に殺した。死が現実になってみると、予告されていたのにと思うが、エジプト人たちにしてみれば「まさか」と思っていたのだろう。人間の予想する時と主の時は違う。主は警告を与えて下さるが、その言葉を信じない者にとっては全くの予想外なのである。一方、主のことばを信じ従ったイスラエルに取ってはこの時は救いの時となった。エジプトは強制的にイスラエルを追い出したので、残りたくても残れない。主の時には人間の意志を超えて大きく事が動くのである。
3.ためらわずに
モーセは「ためらうことなく」(21) 羊をほふれと命じた。わかっていてもためらってしまうことがあるからだ。私たちにとってもこれは当てはまるすすめである。なぜなら主の時=最後の審判が迫っているからだ。エジプトの時と違って、最後の審判はいつなのかはわからない。だから、まだ機会のあるうちに、ためらわずに子羊イエスを信じよう。
一覧表に戻る
