

1.一つ残らず
事態はいよいよ緊迫してくる。前回は幼子たちはとどめよと言ったパロがそれを許し、ただ羊と牛は残せと言う。家畜は財産。財産を押さえようという計算が読み取れる。上手に交渉すれば羊か牛のどちらかは連れて行けたかもしれない。しかしモーセは人の言葉をよりも神の言葉を信じたから交渉の誘いには乗らず「ひづめ一つも残すことはできません。」と答えた。
2.あなた自身が
モーセは答える際に、パロに「あなた自身が神にいけにえをささげさせるべきだ」と迫った。より大切なのは出国できるかどうかより、人々が真の神を信じるかどうかなのだ。数々の神のわざを見て、結局パロが学んだのは何だったのかをモーセはただしたのだ。これは私たちにも問われている。あなた自身が自分の心の真実な応答として神にささげものをしているだろうか。全面的に神に従うのか、条件付きなのかは、大きな違いなのだ。
3.結構
パロは交渉を決裂。しかしモーセは動じない。なぜか。彼には切り札があった。それは11:4-8で語った神の計画の予告。彼は神の予告が実現する事を信じていたので、妥協せずに立ち向かえたのだ。この切り札は私たちにも与えられる。やがて神は世界と人々を裁く。すべての人が復活して主の裁きを受ける。主イエスを信じる者には、永遠のいのちを。信じない者には永遠の滅びを。この切り札を信じて、世に妥協せずに主に従おう。
一覧表に戻る


1.父たちよ
1節では「両親」とあるのにここでは父だけ。父は両親の代表者という事が強調されている。子を育成する責任はまず父にある。子に接する時間や密度は母の方が絶対的に長く深いが、それでも子育てを母任せにするのは責任放棄である。子育ての現場で苦闘する母が選手なら父は監督。監督の励ましや作戦次第で選手の動きは大きく変わる。父よ子育ての良き監督となれ。
2.子を怒らせるな
せっかく親に従おうと努力する子を怒らせてしまう事が親にはよくある。儒教道徳の影響から我々日本人は子を評価しほめる事が少ない。その反動で子に甘すぎる親もいる。子は精神構造上、育児放棄されても甘やかされても同じように怒るという。子の怒りは自分を正当に扱ってもらいたい表現なのだ。父たちよ。子を正当に扱っているだろうか。
3.主の教育と訓戒
教育=肯定面。訓戒=否定面。積極的に取り組むべき事と戒められなければならない事の両面が大切。一方に走る事が多いので、バランス感覚が重要。子の問題と可能性の両方を親は理解しまた信じなければならない。しかも「主の」がつく。人間の知恵だけを与えても十分ではない。人を本当に育てて下さるのは、人間をご自分のかたちとして創造された主ご自身なのだ。肉の父である我々は「総監督」とも言うべきお方の方針に従うのだから、まず聖書を学び、子を育てる上での主の深い知恵をよく知ろう。
一覧表に戻る


1.行け…だが誰が?
家臣たちの助言を受けて、パロはイスラエルと交渉を再開するが、そこで「だが、いったい誰が?」と問う。パロはイスラエルの要求の詳細すら理解しようとしていなかったのだ。モーセは妥協することなく「全員」と主張する、パロは「壮年男子だけ」と言い返し、自ら交渉を決裂させてしまう。神の求めに少しだけ応えて自己満足することはないか。
2.もう一度だけ?罪を赦してくれ
いなごの被害は全作物におよぶ。雹の時には被害を免れた小麦(9:32)も全滅。パロはあわててモーセたちを呼び赦しを乞う。モーセは立場を利用して「赦すかわりに」と条件をつける事はしない。人間的にはここで上手に交渉すればと思うが、そうするなら悔い改めではなくなってしまう。祈りは交渉より大切。「仲介者モーセ」は祈りいなごは去った。
3.かたくなさを認めよ
案の定、パロは再びかたくなに。作物は全滅して手遅れであり、その上労働力まで失う事は翌年の収穫にまで響くと考えたのだろう。また、いなごは食べ物を求めて飛び去っただけだと都合良く解釈し、悔い改めを「気の迷い」へと後退させてしまう。パロは「もう一度だけ赦してくれ」と言っていたということは、それ以上の赦しは不要だということであり、そこに傲慢があった。主は隠れた傲慢を明らかにしたのだ。私たちは罪を繰り返す者である事を認めよう。そして主に正しい悔い改めへと導き続けていただくことを願おう。
一覧表に戻る


1.ペンテコステ
ヨエル書のこの預言は使徒2章に記されているペンテコステの出来事によって成就した(使徒2:16-21)。三位一体の神である聖霊さまが弟子たちに下られ、突然、彼らは知らなかった外国語でみことばを語りだした。それは人間の力によるものとは明らかに違う聖霊のみわざ。聖霊のみわざは現代も行われる。実は主イエスを告白することは聖霊による(Tコリ12:3)。主イエスを自分の罪の救い主として告白すること自体が聖霊を受けたしるしなのである。
2.すべての人に
「息子や娘」→男女とも。「年寄り・若い男」→年齢を超え。「しもべにもはしためにも」→身分や立場が低くても。与えるお方の寛大さは受ける人間の資質には左右されない。「主の名を呼ぶ者はみな救われる。(32)」と記されているのだから、自分が主の助けを必要とする罪人であることを認め、悔い改めて主に救いを求めるなら、必ず聖霊を受けて主イエスを告白できる。
3.主が呼ばれる者
ただし順番はある。ペンテコステの日、まず弟子たちに聖霊が下り、次に彼らのことばで3000人が聖霊によって主を信じた。さらにその人々によって多くの人々が聖霊を受けていく。そうして私たち自身も主に呼ばれる順番が来たのだ。私たちの次の順番の人は、私たちのあかしのことばを待っている。主を信じ、みことばを伝えよう。心の荒廃したこの時代にも「主の呼ばれる者」が残されている。その人に届くまで私たちのあかしは続くのである。
一覧表に戻る
