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礼拝メッセージ(2006年5月)

2006年5月28日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:出エジプト記 10章1節-2節
宣教題:「主を知るために」
國分牧師

 

1.パロの強情を用いられる

パロは不本意に強情にさせられたのではない。彼の心の本質が自己中心であったのが明らかにされたのだ。しかしそのような者の存在も主は無駄にはされない。箴言16:4では「悪者さえも災いの日のために造られた」とある。主のみわざが豊かに現されるためにパロの強情が用いられたのは彼にとっては皮肉。人の心の本質を明らかにされる主を恐れよう。

2.主を知るため

主のみわざの目的は、ご自身が真の神である事を明らかにし、人々が主を知る(=信じる)ため。私たちは漠然とした空想上の神を信じるのではない。歴史に介入され、はっきりご自分を示された方を信じるのだ。エジプトで力あるみわざをなされたあのお方を、今も同じみ力を持つ方として信じるのだ。その信じ方は「みことばに従う」こと。これは昔も今も全く変わらない。

3.息子や孫に語り聞かせるため

主を信じる信仰は自分で獲得したのではなく賜物なので、自分の心だけに留めておいてはならない。その信仰を語らなくてはならない。特に自分の子や孫には必ず。彼らが信じるかどうかは主のあわれみによる。しかし語る事自体は私たちに命じられた事であって、語る事によって私たち自身がみことばに従う=主を知ることになる。さらに私たちのあかしを聞く人々にも主を知る機会を与えることになり、このようにして主はご自分を明らかにしようと今もしておられる。主のみわざに参加しよう。


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2006年5月21日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:出エジプト記 9章1節-35節
宣教題:「主のことばを恐れた者」
國分牧師

 

1.続く災いでもパロの心はくだかれない(1-12)

家畜の疫病(1-7)、人と獣にうみの出る腫物(8-12)と続けて災いが起こるがパロの心は砕かれない。彼は事態を把握できなかったのではなく、イスラエルには災いが及んでいない事も調査済みだった。わかっていてもやめられない。悔い改めは主からの賜物なのだ。

2.高ぶる者を立てておく理由(13-16)

様々な災いを起こしながら、直ちにパロを滅ぼさない理由を、主は「わたしの力をあなたに示し、わたしの名を全地に告げ知らせるため」と言われる。確かにヨシュア2章のラハブのことばなどで、エジプトに下された災いは広く知られることとなったことがうかがえる。主を知る事のできるチャンスを、主は計画的に人々に与えて下さっているのだ。

3.主のことばを恐れる幸いと恐れない罪(17-35)

雹の災いの時には、エジプト人の間にも警告に従う者と従わない者とに分かれるという変化が見られる。その差はみことばへの信仰があるかないかの差。いくら伝えても信じない人もいれば、どこの国の人であろうと主のことばを心にとめ恐れ従う人々が必ずいる。そこに宣教の必要性がある。
 パロは被害を受けてから「私は罪を犯した。主は正しいお方だ。」と言うが、その反省は災いが過ぎ去る時までだった。パロが恐れたのは被害であって主のことばではなかったのだ。みことばより現象に心をうばわれてはいないか。現象よりも主のみことば自体を恐れ従う者になろう。


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2006年5月14日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:エペソ人への手紙 6章1節-3節
宣教題:「父母を敬う幸い」
國分牧師

 

1.主にあって両親に従う(1)

両親に従うことは信仰を抜きにした人間の自然な感情であり、わざわざ「主にあって」というのはおおげさに思うかもしれないが、実はこどもは親を信じることによって神を信じることを学ぶ。親は神の代理。親に従うことは主に従うことにつながっている。だからこそ、主に従う者は、ますます積極的に親に従う動機が与えられているのである。

2.第一の戒め(2)

十戒(出20章)では「父と母を敬え」は5番目の戒めだが、4番目までは神についての戒めであり、人間同士についての第一の戒めがこれ。ということは、「殺すな」「盗むな」といった戒めよりも優先する課題。人間関係における最も基礎的な事は親を信じ従うこと。この基礎なしには、他の人々を信じ彼らとの関係を健全に保つことは困難なのだ。

3.しあわせの約束(3)

親との信頼関係を得ているこどもは、情緒が安定する。情緒不安定でしあわせになることはありえない。これは実は親の子育てという観点からも重要。自分のこどもをしあわせにしたいならば、親を敬う子に育てる必要がある。強制では敬うふりはできても心から敬うことはできない。自分自身が敬うに値する親なのかどうかが問題なのだ。敬いにくくしてしまっていることはにかと自戒する必要がある。また成人したとしても、子は常に親の幸福を求める。親が不幸なら自分も不幸を感じる。親は子に敬われることに最大の幸福を感じる。互いの幸いのため親を敬おう。


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2006年5月7日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:出エジプト記 8章1節-32節
宣教題:「強情という災い」
國分牧師

 

1.かえる(1-15)

神の命令(5:1)を無視するエジプトへの次の災いは大量のかえる。呪法師たちはかえるを増やすだけで減らす事はできないので、ついにパロはモーセたちとの交渉に応じる。が、一旦かえるが死滅すると強情になる。「なんだ時間の問題でかえるは死ぬのだから交渉は必要なかった。」と思ったのだろう。物事を自分に都合良く解釈する者は、決して素直に忠告を聞く事はできない。

2.ぶよ(16-19)

次の災いはぶよ。これは呪法師たちにもできなかったので彼らは「神の指」と認め、パロに警告した。しかし、パロはアドバイザー言う事すら聞かずにまた時間が解決するとぶよは無視する。彼はアドバイスを重んじていたのではなく、自分の気に入ることばを言わせていたのだ。自分に都合の良いことばしか聞こうとしない者は、滅びに向かって行ってもそれに気がつかない。

3.あぶ(20-32)

次の災いはおびただしいあぶがパロ自身の家にも入って来たので、無視できなくなったパロはモーセたちと交渉し、一旦は荒野への礼拝の旅を許可するが、あぶが去ると約束を反古にする。パロには自分の言葉を守ろうという意志はなく、ただ苦し紛れに守る気もないことを言っただけだった。私たちも主に祈る時に、苦し紛れに無責任な祈りをする事はないだろうか。それではパロと同じ。パロのいいかげんさに怒りを感じるなら、神も私たちのいいかげんさに怒られる。(伝道者5:2-6参照)神を恐れ悔い改めよう。


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