
1.神は成就された(23−24)
十字架の上で苦しまれている主イエス、その足元で下着を分けることに夢中になっている兵士たち。ヨハネはこの光景に詩篇22篇の成就を見た。神は罪の裁きも知らず目先の利得ばかりに目を向けている者たちのために御子を罪のいけにえとされた。詩篇22編は主の叫びも預言している。御子の叫びにも顔を背け、何も知らない私たちのために神はご計画を成就された。
2.御子は成就された(28-30)
救いは神だけでなく主イエスも成就された。主は私たちを愛して最後までみことばに従われる。主は預言の成就のために「渇く」と言われた。それは詩篇69篇21節の成就。磔にされる直前に差し出された「没薬入りのぶどう酒」は痛み止め、ここで出されたのは「酸いぶどう酒」かえって苦しみが増し加わる気付け薬。主は私たちの完全な救いのため、罪ののろいの一切を引き受けられた。また試みにある私たちを助けるためご自身も最後まで試みに耐えてくださった。最後に「完了した」と言われるがそれは最後まで愛しきってくださったことを示す。
3.私たちに託されたこと(25-27)
十字架の上で主は母を愛する弟子に託される。わが子の苦しみと死に母はどれほどの絶望と苦しみを感じていたか。だがこの弟子は3日後、墓で主のよみがえりを知らされる。その喜びの知らせを家族の愛をもって、すぐに母に知らせたことだろう。主のよみがえりの喜びと勝利の知らせを伝え、家族の深い絆に結ばれて、真実に互いに励ましあい支えあうよう、私たちに託されている。
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1.忘れていた
主はルカ9:22で復活を予告されているが、女たちは忘れていた。それで生きている主に合う事は期待せず、死んだイエスに会うために墓に行き、み使いに「なぜ」と責められた(5)。その報告を受けた使徒たちも、女たちの報告をたわごとと思ってしまった(11)。彼らも主の復活予告を忘れていた。女たちはみ使いに指摘されたのでイエス様のみことばを思い出せたのだ(8)。
2.目がさえぎられている
エマオ途上の弟子たちは、主イエスに会っていながら目がさえぎられて主であるこ
とに気がつかなかった(16)。主と会話して心に感動を覚えながら(32)、目が開かれる時まで主だとわからなかった(31)。主の導きの中にいながら主の愛に気がつかない事がある。私たちは自力で真理を見いだせると思ってはならない。助けなくしては、見えているはずの物も見えないのだ。
3.弟子たちの目を開いて下さる
主はエマオ途上の弟子たちを「愚か・信じない・心の鈍い人たち」と責められた(25)。使徒たちをも「どうして疑う」と問われた(38)。わかっていないのにわかっているように思い、自分の理解を根拠とするので主をも疑い、みことばを聞いても主ご自身の助けなくしてはその意味を悟れない(45)。そのような弟子たちを、主は「あなたがたは証人だ」と語り(48)、愛と期待を持ってその心を開いて下さった(45)。私たちも主のみことばを悟りみこころに従うため心を開いていただく必要がある。主よ我が目を開きたまえ。
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1.忘れていた
主はルカ9:22で復活を予告されているが、女たちは忘れていた。それで生きている主に会う事は期待せず、死んだイエスに会うために墓に行き、み使いに「なぜ」と責められた(5)。その報告を受けた使徒たちも、女たちの報告をたわごとと思ってしまった(11)。彼らも主の復活予告を忘れていた。女たちはみ使いに指摘されたのでイエス様のみことばを思い出せたのだ(8)。
2.目がさえぎられている
エマオ途上の弟子たちは、主イエスに会っていながら目がさえぎられて主であることに気がつかなかった(16)。主と会話して心に感動を覚えながら(32)、目が開かれる時まで主だとわからなかった(31)。主の導きの中にいながら主の愛に気がつかない事がある。私たちは自力で真理を見いだせると思ってはならない。助けなくしては、見えているはずの物も見えないのだ。
3.弟子たちの目を開いて下さる
主はエマオ途上の弟子たちを「愚か・信じない・心の鈍い人たち」と責められた(25)。使徒たちをも「どうして疑う」と問われた(38)。わかっていないのにわかっているように思い、自分の理解を根拠とするので主をも疑い、みことばを聞いても主ご自身の助けなくしてはその意味を悟れない(45)。そのような弟子たちを、主は「あなたがたは証人だ」と語り(48)、愛と期待を持ってその心を開いて下さった(45)。私たちも主のみことばを悟りみこころに従うため心を開いていただく必要がある。主よ我が目を開きたまえ。
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1.主の悲しみ
主はよく大切な祈りをされるために寂しいところに行かれたが、この時の祈りは「悲しみ」という感情の動揺を静めるためだった。主は「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られ、明らかに十字架の死を悲しんでおられた。いのちそのものであるお方が死に、父と聖霊との愛の交わりから捨てられるのは極限的な苦しみなのだ。
2.悲しいからこそ祈る
祈りとは神への語りかけである。主は非常な孤独感を感じておられた。そのような心に大きな必要があるときには誰か自分を受け止めてくれる相手に語りかける必要がある。最も寛容に受け止めて下さる父なる神に祈る事が最善。主は祈りの中で、悲しみに屈せずに父のみこころに従うことと、どうしても十字架のあがないが必要であることを確認し、受難への心備えをされた。
3.祈りの必要
主は弟子たちがつまずくと予告された。弟子たちは否定するが予告通りになる。心は燃えていても肉体は弱い。彼らは主が悲しみもだえて祈っておられるのを見ていながら、その祈りの途中で眠ってしまい、弱さを暴露する。弱い者たちだからこそ、修行や悟りや行いなどでは絶対に救われない。どうしても主が身代わりに死ななければならない。弱い私たちは誘惑には一人では立ち向かってはならない。主とともにいなければつまずく。自分の弱さを主に告白し、謙虚に導きを求める心砕かれた祈りが私たちにも必要なのだ。
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