
1.サタンが入ったユダ
イスカリオテ・ユダはなぜ主イエスを売ったのか。金欲しさもあったが、サタンが入ったという点が大きなポイント。(ヨハネ13:2,27)一旦悪を決意すると、他の手段で目的が果たせても、決意した悪自体をやめるのが難しくなる。それは罪の奴隷状態。私たちもユダのように、表面的には善人でありながら、誰にも知られないところで深く罪に支配されていないだろうか。
2.待ち望んだ晩餐
一方、主イエスは望んでいた弟子たちとの最後の晩餐の席に着く。この直後に受難が待ち受け、救いの計画が達成される。主イエスは弟子たちに教える最後の機会に、ご自分の死の意味を「あなたがたのため」だと教えられた(19-20)。これが最初の聖餐式で、主の死の意義を覚えるため、今日まで世界中のクリスチャンたちに守られている。
3.裏切る者も主の食卓にいた
大切な晩餐の席には裏切りを固く決意したユダもいた。主は彼のたくらみをご存知でありながらその席でともに食事をし、彼に対しても「あなたのために死ぬ」と語られた。主は裏切る者も愛しているが「人の子を裏切るような人間はわざわいです」とも語られ、ぎりぎりまで悔い改めるチャンスを与えて下さったのだ。私たちも主を裏切る心を秘めているが、主は自発的な悔い改めを望まれている事を覚えよう。
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1.イエスは舟から宣教される
ある朝、イエスはガリラヤ湖畔で教えを宣べ続けられていると、群集はふくれあがった。そこでイエスは、ペテロの舟に乗り、舟から岸辺の民衆に教えを説かれた。
2.ペテロの心の目が開かれる
ペテロはイエスの命令に従って網をおろすと、大量の漁獲があった。ペテロはすぐに主イエスの足元にひれ伏した。ペテロは心の目が開かれイエスは神ご自身であることを知り、自分の罪深い姿を自覚させられた。
3.「聖なる神」を礼拝する
ペテロはイエスを前にして、神の「聖さ」(カド一シュ)を直感した。十字架はキリストが人の罪を担われて聖なる神に近づかれた方であることを示している。現代の礼拝者は神の「聖さ」の認識が欠けているので、悔い改めて神に受け入れられる礼拝を捧げることが重要である。
4.イエスの召命に対するペテロの態度
ペテロは主イエスから「これから後、あなたは人間をとるようになる」と仰せられた。そして何もかも捨ててイエスに従った。ペテロは欠けの多い者であったが主から愛され大きく用いられた。私たちにおいても絶えず主にすがって歩む者は、み手によって変えられていくと確信する。
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1.ためらいつつも従うモーセ
主は再度パロに告げよと命じるがモーセはためらった(6:30)。 パロは自分の言う事を聞かないのでむだであり、自分が傷つくのを恐れたのだろう。モーセは神の主権を見失いかけていたが、主はその訴えに丁寧に応じみこころを確認された(7:1-5)。直接口を開くのはアロン。パロのかたくななさは主の計画。最後は解放される。モーセは従う決意を新たにした。
2.呪法師も同じ事を
モーセとアロンの奇跡を見ても、パロは危機感を抱かず、対抗策として臣下の呪法師たちを呼び、彼らも同じことをしたので主のわざを軽んじた。しかしパロは肝心な事を見落としている。蛇の奇跡ではアロンの蛇は呪法師たちの蛇より強かった事。また水の奇跡では、呪法師たちはエジプトの民の水不足を解消できず、かえって主と同じ事をして主のみわざを押し進めていた事を。慢心は事実を歪んで受け止める。主のわざを見るながら信じなかったのだ。
3.見ても信じない
「見たら信じる」と言うのはおかしい。見て確認すればもはや「知っている」のであり、信じているとは言わない。まだ見ていないからこそ信じるのであり、その信仰は聞くことから始まる(ローマ10:17)。主の求めるのはそういう心である。信じない人は何を見ても、自分の悟りしか信じない。パロもまず主には従わないという結論を出してからその裏付けをとろうとしていた。自分より主を信じたモーセとは対照的。主のことばを心に留めよう。
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1.落胆
パロは強硬な応酬のため民に与えられた信仰(4:31)はしぼんでしまい、解放ではなく破滅の計画だとモーセたちを責める(21)。この苦しいとき、主は再度解放の約束で励ましてくださったが、民はもはや聞こうとしない。解放への期待が大きかった分、落胆も大きかった。反面、主への期待が薄かったので、簡単に失望してしまったとも言える。
2.なぜ何のために
モーセたちは打ちたたかれた人夫がしらたちを心配して迎えに行ったのに彼らに責められる。この厳しい試練の時にモーセは主に「なぜ」と祈る。苦しみのさなかで祈るのは主への信仰のしるし。主イエスも十字架上で祈られた。聞こうとしない民の態度とは好対象。
3.わたしは主
民は聞こうとしなかったが、6:1-8の主のメッセージは力強い。聞こうとしないのは「わざ」に注目して「ことば」に注目しないゆえ。私たちが礼拝説教を聞く時にも、ことばの意味内容より、自分にとってタイムリーかどうかに心が向かいやすいのではないか。それは自分を主体とした聞き方。主は、主ご自身を主体とした聞き方を望んでおられるので「わたしは主」と強調する。主ご自身に注目するならば、パロの強硬な態度も主の予告どおりなのだから、その苦しみの後に救いが在ることを信じられるはず。注射の痛みは癒しの前兆と信じるように、従順ゆえの苦しみは祝福の前兆と期待しよう。
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