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礼拝メッセージ(2006年2月)

2006年2月26日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:出エジプト記 5章1節-9節
宣教題:「主とは何者か」
國分牧師

1.私は主を知らない

モーセたちは、いけにえをささげるためイスラエルに休みを与えるようパロに申し入れるが、主の予告通り(4:11)、パロは「私は主を知らない」と断る。主は裁く前に人の心の問題を明らかにされる。パロの問題は、主を知らないことを当然と語り、主を知ろうとしない事だった。

2.「なまけ者」「偽りのことば」なのか

主を認めないパロにとってモーセたちの要求は不当に思えた。当時の社会における奴隷労働は、現代の水道や電気のような社会基盤の役割を果たしていた。エジプト社会に大きな犠牲を強いるのはなまけ者であり、なまけを正当化する教えは「偽りのことば」だと。このパロの指摘は現代でもなされる。他宗教を否定するキリスト教は自己正当化の偽善だと。礼拝より経済活動を優先させるべきだと。しかし礼拝のために荒野へ片道三日間の旅をするのはなまけ者にはできない。真の神を知らないパロは、何をおいてもまず神をあがめるべきだという、礼拝の意義がわからなかったのだ。

3.主とは何者なのかを知らなければならない

パロとエジプトはイスラエルを通して真の神を知る機会がありながら無視してきた。彼らは主とは何者なのかを知らなければならない。だからこそ、「主とは何者か」と問い、主のことばと格闘し、自らの無力を思い知るよう導かれるのである。私たちも「主とは何者か」を徹底的に知り、砕かれなければならないのだ。


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2006年2月19日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:出エジプト記 4章18節-31節
宣教題:「民は信じた」
國分牧師

1.奉仕の準備

エジプトへ向かうモーセに神は様々な準備をされた。彼のいのちを狙う者はもういないことを教え、パロは言うことを聞かないことを予告し、主に従わない者への裁きを宣告すべきことを告げた。いずれも必要な備えだったが、さらに息子に割礼をほどこしていなかった故に、主がモーセを殺そうとすることもあった。ユダヤ人ではない妻チッポラは息子の割礼に同意しなかったのだろう。神の命じた割礼を実行し、奉仕へと進む準備がなされたのである。

2.アロンとの再会

モーセはアロンに主が語られたすべてを告げた。アロンも神のことばを直接聞き、モーセに会いに来ていた。それゆえ、アロンはモーセの語ることを真実だと受け止めることができた。アロンはモーセにとって非常に勇気づけられる存在となった。神によって事が進むときには、そのように導かれて備えられている人々が要所にいるのである。

3.民は信じた

アロンはイスラエルの長老たちに、主がモーセに告げた言葉をみな告げた。モーセもアロンも決して部分的にかいつまんで語ったのではない。しるしはその「言葉のしるし」なのであって、大切なのは主の言葉なのである。私たちも主のことばを受けている。そのすべてが大切である。ある部分を特に重んじるなら、何を重んじるかという自分の判断が主のことばより優位になってしまう。全てを受け止めるとき、信仰が生まれるのである。


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2006年2月12日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:出エジプト記 4章1節-20節
宣教題:「神のことばを語るために」
國分牧師

1.神は権威のしるしを与える

モーセには三つの躊躇があった。第一は自分には信用がないので、パロどころか同胞さえ信じてもらえるとは思えないということ(1)。神は権威のしるしとしての奇跡を行う力を与えた。神は、神のことばを伝える上で必要な賜物を働き人に与える。奇跡ではなくとも神のために用いる賜物は、私たちにもそれぞれ与えられる。

2.神は語るべきことばを与える

第二の躊躇はコンプレックス(10)。ことばに自信がないというコンプレックスは賜物ではおぎなえない。神はご自分が語るべき言葉を与えるので神の助けを信じるように励ました。神は自分の弱さも知っておられる。神の使命を果たすのに必要なものは神が与えてくださるのだ。私たちの側で必要なのは神への信頼なのである。

3.神はやる気をも与えられる

第三のそして最大の躊躇は、自分の手を汚したくないということであった(13)。自分の不得意なこと、嫌いなこと、危険なことは、他の人にまかせたいと私たちも思うことがある。そのような消極性は、必要なものが全てそろってもなお様々な言い訳を生み出す。主のために働く本人のやる気は大切なことなのである。神は怒ることにより、また協力者として話術に長けた兄アロンを備えていることを語って、モーセのやる気を引き出された。モーセはついに神の言葉を語る決意をした。私たちもその模範に習おう。


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2006年2月5日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:出エジプト記 3章13節-22節
宣教題:「計画を持っておられる神」
國分牧師

1.神の名

名は人格を表す。名を尋ねるのは神との人格的な交わりを望むということ。神は二つの答えをされた。第一は「わたしはある」これは神が実在者であり、すべての存在の根源であることを示す。第二は「アブラハム、イサク、ヤコブの神」アブラハムを父祖と仰ぐ点ではイシュマエルやエサウも同じだが、ヤコブの信仰こそ正統的信仰でありそのように信じることを求めている。

2.近い将来の出来事を語る

神は近い将来に起きる事柄と具体的な行動指針を語られた。長老たちを集めて彼らにまず語ること。長老たちといっしょにエジプト王に嘆願に行くこと。エジプト王は強いられなければ行かせないこと。神ご自身が不思議なわざでエジプトを打ち、去らせること。去るときには奴隷労働のむくいとしてエジプトからはぎとることまでを命じた。

3.語られたことをどう受け止めるのか

神の語られた事柄はモーセの理解を超えていた。先まで読める読者は神のことばが実現することを知っているが、先を知らないモーセにとっては、自分たちの将来像を思い描くのは難しい課題である。そのように信仰が問われるときは、そのことばをどなたが語っているのかを確認することが役立つ。実在し、すべての存在の根源であるお方であること。父祖アブラハムたちに偉大な経験をさせた方であること。その同じ方のことばを私たちもいただいている。神のことばを信じて受け止める者は幸いである。


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