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礼拝メッセージ(2005年12月)

2005年12月4日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:ルカの福音書創世記 1章5節-25節
宣教題:「逆らう者への福音」
國分牧師

1.主の使いのことば(5-17)

主の使いは祭司ザカリヤに、男の子の誕生を予告した。その役割はマラキ4:6に預言されている。「父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる。」とは、「逆らう者を義人の心に立ち戻らせ」ること。主が来たときにあまりに人々の心がすさんでいれば「のろいでこの地を討ち滅ぼす」から。主を迎えるにふさわしいのは悔い砕かれた心なのだ。

2.何によって(18-23)

ザカリヤは自分に語るのが主の使いとわかっていたはずなのに「何によって」と尋ねた。天使に会っただけではしるしとして不十分ということか。彼はしるしとしておしにされる。しばらく黙って反省せよという事か。実はザカリヤ自身が主のことばを聞いてもすなおに受け入れない「逆らう者」であった。主のことばを学ぶ私たちは、受け入れ従っているだろうか。

3.主は心にかけてくださった(24-25)

エリサベツは夫と筆談はできた(62-63節)。それで一連のできごとを理解していた。彼女は自分の妊娠を主の愛のみわざと理解していた。自分自身を主が心にかけてくださっていることこそ、感謝な事。自分の存在とは無関係に主の大きなみわざが実現するのではなく、自分自身も用いられて主のみわざが行われるという点が大切。自分のような「逆らう者」でさえも主のみこころの中にある。主の福音は私自身のための福音なのだ。ならば砕かれた悔いた心で主を迎えよう。


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2005年12月11日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:ルカの福音書創世記 1章26節-45節
宣教題:「信じきる幸い」
國分牧師

1.とまどい(26-34)

突然の御使いの出現とそのことばの意外さにマリヤは戸惑った。彼女の良さはその戸惑いを隠さずに「どうして」と御使いに尋ねたこと。しるしを求めたザカリヤと違い、マリヤは説明を求めることでさらにみことばを求めた。私たちはみことばが理解できない時、理解を超えたしるしを求めやすい。しかし、理解できない時はさらにみことばを求める事が正解なのだ。

2.おことばどおり(35-38)

み使いのことばには人間の理解を超え、ただ信じるしかない聖霊の力という内容があったが、老女エリサベツの妊娠と言う有力な例証が語られ、神の全能の力を信じるよう勧められた。マリヤは神の全能を単に理論的に受け入れるだけでなく、自分自身の上に神の計画が実現するように求め「おことばどおり」と答えた。この素直さが私たちの模範。

3.信じきる幸い(39-45)

マリヤはエリサベツを訪問する。主を信じ従う者同士にしかわからないことがある。二人はこの交わりを心から喜び、お互いの信仰で励まされた。エリサベツはマリヤの素直な信じきる心を賞賛した。しかしマリヤは決して悟りの境地に達したような特殊な人間ではない。後にイエス様にいさめられたこともあった(ルカ2:49,ヨハネ2:4)。十字架の下ではただ主を見上げるしかない無力な者だった。いやむしろ、自らの無力を認めるからこそ、主のことばを求め続け、従順に従うことができる。信じきる者は幸いなのだ。


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2005年12月18日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:ルカの福音書創世記 2章1節-20節
宣教題:「恐れではなく、喜び」
國分牧師

1.羊飼いの恐れ

羊飼いたちはなぜ恐れたのか。人は天使の聖さを恐れる。自分が罪深いから聖い存在を恐れる。エデンの園で神から隠れたアダムと同じ。私たちも自分の心の奥底まで見抜く方の前に立つのは恐い。神は本当は喜びを与える存在を恐れる人間を哀れんで福音を与えてくださった。私たちは喜びの知らせを前にしているのに、恐れてしまっていることはないだろうか。

2.喜びの知らせ

喜ぶ理由は二つある。第一は「あなたがたのために」すなわち私たちの救い主という事。罪が赦され恐れなくてもよくなることこそ救い。第二はその救い主に会える事。飼い葉桶に寝る赤ちゃんなど他にはいないので確かなしるし。イエス様以外には救いはない。今日の私たちも聖書を学ぶことで、死をも滅ぼす力を持ちながら、罪人らを受け入れ身代わりに死ぬ、飼い葉桶に宿るほどへりくだった聖いイエス様というしるしを見る事ができる。

3.喜びを体験する

喜びの知らせを聞いても体験しなくては本当には喜べない。羊飼いたちは出かけた。それは主イエス様を求める決心をしたという事。会いに行くのは簡単ではない。夜番をしていた羊を野原に置いて行くのは気が引けるし連れて行くのも大変。どちらにしても神の助けを信じなくてはできない。しかしついにイエス様に会って天使のことば通りだった事を確認し、神をあがめて賛美した。これは主イエス様を受け入れ心に喜びが与えられたという事。


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2005年12月25日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:ルカの福音書創世記 2章21節-38節
宣教題:「御救いを見た」
國分牧師

1.1. イエスと名づけられる(21-24)

イエス様は律法に従って割礼を受け命名され献児式も受ける。はとを犠牲にするのは貧しい家庭だが、彼らの姿はユダヤではごく普通の姿だろう。ごく普通に偉大な神のみわざは進んでいた。しかし聖霊に導かれる人にはそこに救い主がおられることがきちんと知らされる。

2.老人シメオンとアンナの願い(25-28,36-38)

一見ありきたりの赤ん坊を見るなりその子が救い主だということを理解した老人シメオン。またシメオンの話をそばで聞いてすぐにイエス様を信じた老女アンナ。彼らの望みは「イスラエルの慰め」「エルサレムの贖い」。神への反逆の故に他国に苦しめられるようになったことを悲しみ、己の罪を悔い改め、神の哀れみで赦していただくことを願っていた。その願いの実現を、彼らは幼子イエスに見たのである。

3.シメオンの見た救い(29-35)

シメオンは主をたたえ両親を祝福したが、母マリヤに語ったことばは穏やかではない。「反対を受けるしるし」「剣があなたの心さえも刺し貫く」。それは神を冒涜したと断罪され十字架に磔にされたイエス様を見上げるマリヤの思いを預言したことば。しかしその悲しい出来事の預言がシメオンの見た救いなのである。イエスの死こそが「万民の前に備えられた」救い。その救いを信じない「イスラエルの多くの人が倒れ」るが、信じる人は「立ち上がる」。罪を悔い改めイエス様を信じ立ち上がる者になろう。


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