

1.子孫(17)
「子孫」は創世記のキーワードの一つ。聖書の中で繰り返し用いられることばは特別な意図で用いられている。創3:15「女の子孫」で明確に言われているように「子孫」はサタンを滅ぼすキリスト預言と結びあわせて語られるので特に重要なことば。アブラハムとその子孫は神の救いの計画の中で生かされると言う素晴らしい特権が与えられた。キリスト信仰は観念だけの救いではないのだ。
2.ひとり子を惜しまなかった(16)
アブラハムが特に用いられたのはひとり子を惜しまずささげる姿を示した事。そんなことできるわけがないと思うような事を実際に行った点が重要。いくら神様でもそこまではしてくれないだろうと思う疑いを、アブラハムは見事に砕く。彼はひとり子イエス様を惜しまず十字架につけられた父なる神の真実の愛を世に示すために用いられたのだ。どんなに悲しくてもやるべきことは必ずなされる神。その偉大さがアブラハムに現された。
3.聞き従った者の祝福(17-18)
祝福は単純にアブラハム個人に与えられるだけでなく、「地のすべての国々」までも祝福される。神はなんと偉大な事か。このような偉大な方の前に私たちもいる。私たちも聞き従うならば、主の救いの計画の中で用いていただける。観念だけの信仰でなく、実際の生き方全体が主に用いられ、自分だけでなく周囲にも主の祝福をもたらす器として用いられる。これが福音の恵み。主に聞き従おう。
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1.はい。ここにおります(1)
様々な信仰の経験を通してアブラハムの信仰は非常に成長していた。成長した信仰者の姿がこの主への返事に現れている。主の呼びかけに対して慌てず騒がず、期待と平安に満ちて「ここにいます。何でも言いつけてください。」という態度で受け答えている。
2.主の備えを信じる(2-10)
我が子イサクをいけにえにするというのは、通常考えられない行動。三日間の旅をするので考える時間もある。なぜそんなことを?殺人ではないか。主ご自身の約束が台無しになるではないか。納得しなければ従わないと言う態度では通用しない。自分の理解を超えた主の導きがある事を信じなければ従えない。イサクに羊はどこ?と尋ねられのはつらかった。しかしその時アブラハムの信仰が見えた。「主ご自身が備えてくださる」。
3.主の山の上の備え(11-14)
アブラハムの期待は実現した。しかしそれはモリヤ山上で、息子を縛ってナイフを振り上げた時までどうなるかわからなかった。私たちの歩みもアブラハムと同じ。信じ始めた時から、様々な経験で信仰が強められる。次の試練は前より厳しいので、常に悩み祈る連続。結果が見えないのでただ主の備えを信じて進むしかないことが続く。しかしそこで嫌気がさすのではなく主への感謝と賛美へと向かうのが信仰。主の愛の中で導かれていることを確認できれば、また次の試練へと向かっていく力がわいてくる。
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1.サラにイサクを生ませる主(1-7)
アブラハムに注目してきたが、その妻サラをも主は考えてくださっていた。彼らは夫婦の間の子をあきらめていたが、神は彼女を顧み約束の子イサクを生ませたのである。彼女は神の約束を信じなかった自分は、神や人々の笑い者だと言うが、それは嘆きでなく喜びの表現である。神の恵みを受け満ち足りた心は、自分の愚かさをも笑えるのである。
2.サラの意見を重んじる主(8-13)
イサクの誕生はそれまで後継者とみなされていたイシュマエルとの間に問題を生む。サラにとって大切なイサクのパーティの席で不愉快な行為をしたイシュマエルとその母ハガルを、追い出してくれとサラは夫に訴える。アブラハムの心は揺らいだが主は妻の言い分を聞けと言われる。アブラハムは痛みを感じつつ主にゆだねて、二人を無一文で去らせる。これによってイサクこそ主の選びの子であることがより明らかとされたのである。
3.イシュマエルも顧みられる(14-21)
主はあわれみ深い。イシュマエルは本筋からすればよけいな存在である。しかし主はそのイシュマエルを顧み、生かし、やがて偉大な国民アラブ人の祖先になるよう導かれた。私たちもかつてのサラのように自分は期待できない存在と失望する事はないか。イシュマエルのように見捨てられていると悲観する事はないか。主は人間が意味や価値を見いだせないと思うことをも顧みて大切に取り扱われることを学ぼう。
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1.罪を確かめる主(16-21)
ソドムとゴモラは特に罪深い町でした。そこで苦しむ人々の叫びを聞き、本当にその通りか確かめに行くと主はアブラハムに言われました。何も話さないで行っても良かったのですが、あえてアブラハムに言ったのはどうしてでしょうか。
2.とりなしをする機会(22-26)
アブラハムの家に来た三人のうち二人の御使いは先にソドムに向かい、主はアブラハムと話していました。アブラハムは主に近づいて、心の思いをぶつけました。「ソドムとゴモラにも正しい人がいるかもしれない」と。このような疑問をぶつけられるように主は前もって教えてくださったのでしょう。主もまた、アブラハムが尋ねてくれてうれしかったでしょう。
3.とりなし続ける(27-33)
主は50人の正しい人がいれば赦すと言われました。しかし45人ならばと思い、続けてアブラハムは尋ねました。それでも赦すと聞くと40人、30人、20人、10人と尋ね続けました。一度だけとりなしの祈りをしてそれでやめるのでなく、祈り続けることを主は望んでおられるのです。なぜなら主もできれば赦したいからです。赦したいのに赦せない思いをアブラハムは主と共有したのです。祈りきってアブラハムは主にお委ねしました。このようにわたしたちも祈りましょう。特に愛する家族のため、最後まであきらめないで祈り続けましょう。
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