

1.群衆から離れて(45-47)
パンの奇跡の後、直ぐに主は弟子たちを「強いて」向こう岸に出される。多くの人々の喜びと驚きの声の中、弟子たちには去りがたい思いがあった。しかし主はとどまることを許されない。あえて暗い、やがて嵐に行き悩む湖に送り出される。それは弟子たちを世の流れから守るため、救いのすばらしさを知らせるためだった。そして主御自身も一人祈るために退かれる(1:35,14:32-42) 。
2.嵐の中の主イエス(48-52)
力を尽くし、知恵を尽くしても終わらない苦しみが弟子を襲う。湖の真ん中で助けを求めるすべもなく、行き悩む弟子たち。しかし彼らは見守られている。送り出された方は選んだ者の労苦を知り、寄り添われる方。水の上を歩まれること、通り過ぎられること、「幽霊」と恐れさせること、すべて人が近付くことの出来ない栄光の神が現されている(出エジプト33:19‐20、ヨブ9:8-11)。このお方が苦しみ悩みを知り、私たちの人生の中に乗り込んでくださる特権はあまりに大きい。そのとき嵐は静まり目的の地に導かれる。
3.ゲネサレの地で(53-56)
主のそばにいながらも心閉じて恵みを味わえない弟子と対照的に、見聞きした事に素直に心を開き信仰の手を伸ばす人々はいやされる。汚れた者も異邦人も差別なく心開く者に与えられる御わざが記されている。救いを受けるには、主のなされたこと語られたことに心開き、信仰の手を伸ばすことだと教えられる。
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1.
人間はまるで心配する生き物。結婚,就職,恋愛,部活,老後,健康等,心配事は耐えません。これらの心配事は,私たちの生活には日常的なことといわざるをえないのです。
2.
しかし,イエスキリストというお方は人が大きな心配を持つことを望まれない方であります。雨が少ないと言っては,今年の小麦はちゃんと収穫できるのだろうか,ナイル川の洪水もその年の食糧事情に大きく響くので,今年はどうだと心配になる。むしろあなたと神さまとのことにもっと気を配って一生懸命になりなさいと言われるのですね。
3.
それは,あなたがクリスチャンとなり,神の国の一員となり,日常の中で,神さまとの正しい関係を持ち続けることです。主イエスはあなたとともにそのように歩みたいと願っておられる。あなたの周りには色々悩みや問題からまず一度べりべりと目を引き剥がし,神さまを知ることに目を向けることです。この視点の転換がないと絶対にあなたの人生は変わらない,問題も心配もそのままです。
4.
聖書的なバランスを保ちながら,神の国とその義とを第一とする人間は魅力的です。本当の意味で,主のみこころのみが実現するんだと信じて,心配事に大きく心を奪われることがないからです。そして毎日をなすべきことに一生懸命になれるからです。それが今日を最大限に生きるということです。
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1.主を家にお迎えする(1-8)
アブラハムの歓迎ぶりは手慣れているので、旅人をもてなすのはいつもしていたことのようだ。彼はそうとは知らずに主を家にお招きしていた。「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」との主の教えを思い起こす(マタイ25:40)。
2.心の中の笑いを見抜かれる主(9-15)
この場面はコミカル。盗み聞きしていたサラの心の中の笑いを見抜いた主は、夫アブラハムに「サラはなぜ笑う」と言われる。するとサラはおもわず幕のかげから「笑ってません」と言って墓穴を掘ってしまう。人間の心の奥底まで知るお方に対しては、ごまかしは一切通用しない。その時はごまかせたと思っても、やがて「確かに笑った」と言われる。
3.アブラハムの使命・信仰継承(16-19)
主はアブラハムを特に選んで使命を与えた。その使命とはまだ見ぬ子と、後の家族(子孫)への「信仰継承」だった。この使命は確かに果たされ、肉の子孫のイスラエルも、信仰の子孫の私たちもアブラハムの信仰を受け継いでいる。子孫に対して影響力を及ぼす事ができたのは、彼の残した「あかし」だった。彼の生き様は良いことも悪い事も記録されたので、彼が実際にどのように生きたのかを知る事ができ、大きな影響を及ぼす事になったのである。私たちの人生も自分だけの人生でなく、子孫(もしくは信仰の子孫)にも影響を及ぼすことを感謝をもって受け止めよう。
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1.99才の者への命令(1-16)
神の約束を信じてハランからカナンへと移住したのが75才(12:4)。10年待っても子が与えられないので、そばめによってイシュマエルを生んだのが86才(16:16)。しかしそれからさらに13年後の99才にして、ついに神は「改名」と「割礼」という決定的な命令を与える。なぜもっと早く命じなかったのかと人は思うが、神は時を定めているのだ(伝3:1)。
2.神を笑う者への命令(17-21)
100才と90才の夫妻には子どもが生まれるはずがないので、アブラムは笑ってしまった。ここに99才まで待たせた意味がある。99才だから、本当に神の言葉を信じるのかどうかが問われるのだ。アブラムはすぐには神のことばを認められず、「イシュマエル」という自分なりの結論を主張してしまった。しかし神は「イサク」と言われる。この神の命令は明確で疑いようがない。あくまで自分なりの理解に固執するのか、自分の理解を超えた神のことばに従順になるのかが問われたのだ。
3.包皮の肉を切り捨てる(22-27)
神を信じ従うかどうかは具体的行動で示さなくてはならなかった。割礼には激しい痛みが伴うが、アブラハムはその日のうちに実行し、従順を示した。私たちにも、捨てるべきものがないか。罪・疑い恐れ・恨み等。わかっているのに捨てなかったら、アブラハムの25年の信仰の歩みも無駄になった。全能の神の前を歩み、全き者となれ。
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1.ゴルゴダの丘(32-33)
イエスが、エルサレム郊外の処刑場ゴルゴダの丘で十字架につけられた時、二人の犯罪人(強盗)も、イエスの両側に十字架につけられた。そして、イエスの頭上には「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と記した罪状書きが掲げられた。それは、イエスに対するさげすみ、あざけりの行為である。しかし、その姿こそ、すべての人の救い主として来られたイエス・キリストに、最もふさわしいものであった。
2.父よ。彼らをお赦しください(34-38)
イエスが、十字架上で語られた七つのことばの最初のことばである。ここで、イエスが父なる神に祈られた「彼ら」とは誰なのかが重要である。直接的には、ローマの兵隊たち、ユダヤの宗教指導者たち、そしてその場にいた民衆を指すのであろうが、この「彼ら」の中には、すべての人間が含まれているのである。真の神に背き、救い主を拒み、自分の罪を認めようとしない、まさに「何をしているのか自分でわからない」すべての人が含まれている。そして、イエス・キリストは、全人類の罪の身代わりとして、十字架上の苦しみのすべてを、そっくりそのまま受け取られたのである。
3.私を思い出してください(39-43)
イエスとともに十字架につけられた二人の犯罪人の一人に変化が起きた。まじかでキリストのことばを聞いて、罪を悔い改め、イエスを救い主と信じたのである。イエスの語られたことばと祈りに、神の愛と赦しを見て、彼はその場で信じた。「私を思い出してください」。神の前に、自分の罪を認め、心低くされた姿から出た信仰告白である。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。かつてはキリストを知らず、その十字架に表わされた神の愛と赦しの意味もわからなかった者が、今は恵みによって救われ、喜びの中にいる。私たちに求められるもの、それは自分の罪を悔い改め、イエスをキリスト(救い主)と信じ受け入れる信仰だけなのである。
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