

1.祈りを教えて欲しいという願い(1)
弟子たちは主イエスの祈りのことばをよく耳にしていた。弟子たちは主イエスのように祈りたいと思い、教えてくださいと頼んだ。その人の信仰はその人の祈りに表れる。ただ美しいことばを知りたいということではなく、信仰そのものの神髄を求めるからこそ「祈り」を学びたいという願いがわく。祈りを知りたいと願っているだろうか?
2.主の祈り(2-4,11-13)
この祈りはマタイ6章の「主の祈り」よりコンパクト。祈り全体の趣旨は同じだが、教えた状況が群衆相手ではなく弟子たちだったので表現がより直接的なのだろう。主はいつもこの祈りに表されるように「父」を慕い求め、父の栄光を心から願っておられた。幼子と親との信頼関係のような、父なる神への徹底的な信仰が主の祈りの根本にある。
3.あくまで頼み続ける(5-10)
主はたとえでとりなしの祈りの姿勢を教えた。真夜中に急に遠方から立ち寄った友人のための食べ物を、自分はもっていないので、貸してくれと別の友人に頼み込む。これがとりなしの祈りをする者の状況とよく似ている。自力で満たせる必要ならとっくにしているが、自分の力にあまるからこそ主の助けを求める。今は「面倒だ」と友人に言われても、腹をすかせた旅人のためなので、必ず理解してくれると信じて「あくまで頼み続ける」。これこそが信仰の姿勢。だれであっても、父なる神に祈り求め、祈り続けよう。
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1.偽りのへりくだり(1-6)
子供の誕生を待ちきれないサライは「そばめによる子づくり」を決心した。自分さえ我慢すれば問題は解決すると思ったのだろう。しかしそれは思い上がりだった。妊娠したハガルの高慢と言う新たな問題が起きると、みせかけのへりくだりは破綻する。ハガルをいじめるところに彼女の問題が露骨に現れ、夫の子を妊娠した女の失踪という新たな問題を生んだ。
2.身を低くする幸い(7-10)
主はこのこじれた問題に介入された。実はハガルの産むイシュマエルは真の跡継ぎではなく、結局は家を出されてしまう(21章)。だからといって主はハガルを見捨てはしない。イシュマエルの存在によって、真の跡継ぎの誕生までのもう14年間が精神的に楽になったのは間違いない。ハガルにとっても、子が大きくなるまで主人のもとで暮らせて助かった。身を低くして帰ること、サライもへりくだって戻ったハガルを受け入れる事が最善だった。
3.ご覧になる方(11-16)
イシュマエルはアラブ人の祖先となる。主はイスラエルにだけでなく、アラブ人の先祖の苦しみも理解され、両者の最善を考えて下さる。私たち人間は皆、主の愛の中でそれぞれの人生が与えられる。すでに亡くなった方も主のご配慮の中にそれぞれの人生を送られた。いま生きている私たちの事も主がご覧になっている。ハガルが主の励ましで身を低くしたように私たちも主の故に、身を低くして自分に与えられた人生を歩もう。
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1.羊飼いのいない羊(30-34)
主と弟子たちを追ってきた人々を主は「羊飼いのいない羊」と見、深いあわれみを示される。羊飼いのいない羊とは、旧約聖書にあるように正しく導く者がいないために、誤った期待や自らの欲に引かれて、倒れあるいは滅んでいく人々を示している。モーセによってエジプトを出たが、つぶやき反抗した民のように。あるいはイザヤ53章の「自分かってな道に向かった」罪人のように。主はその人々を深くあわれみ、救いの道を教えられる。
2.パンの奇跡(35-44)
主がパンを手に取り弟子たちの前でなされた行為は過ぎ越しの祝いの席、最後の晩餐で繰り返される象徴的な行為。このとき主は単に群集の腹を満たすためにではなく、「いのちのパン」としてご自身を示しておられる。深いあわれみゆえに救いを告げられるだけでなく、御自身のいのちを与えて、羊を生かし、神の国に住まう豊かないのちに生かそうとしておられた(ヨハネ10:10)。
3.主に生かされて(38,41)
この奇跡は主御自身が直接になされたのではなく、弟子たちが持ってきた貧しいもの、わずかなものを用いてなされている。主は取るに足らない私たちに与えられているものを用いて、御わざをなされる。主に用いられる者として生かされていきたい。その豊かさを味わいたい。
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1.これらの出来事の後
アブラムがカナンに来て15年近くたっていたと思われる。主はこれまでアブラムを豊かに導かれた。故郷ウルからも中座したカランからもカナンへと召され、脇道のエジプトから戻し、財産を増し、ロト救出を成功させた。しかし、まだ約束のこどもは与えられない。アブラムは、最も信頼する奴隷に財産を相続させるという非常事態すら想定していた。
2.主との会話
主はタイミングよく導かれる。もしももっと前なら「子孫を下さらないので」とは言わなかっただろう。信じて裏切られても立ち直れる余裕がある時にはまだ「信じます」と言いやすいが、その余裕がない時には真の決断がいる。かといって時が遅すぎればあきらめてしまう。あくまで信じるのか信じなのか、ギリギリのタイミングをねらって、主はアブラムの信仰を問われた。
3.信仰を義と認める主
まだ一人もいない自分の子孫が天の無数の星々のようになると信じるのは簡単ではない。しかしアブラムは信じた。ローマ4章には、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです(21-22)とある。彼は約束された主を信じたのである。アブラムとて罪をあがなっていただかなくては義とはされない。私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(24-25)
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