

1.罪の世にいる正しい人
人間の罪はどんどん増大した。罪の性質を持った人間は、安易な道を選びやすいので、良い模範より悪い模範により心を動かされる。それで心の思いが常に悪に傾き(5)、その結果、地は暴虐で満ちた。しかしそのような世界にも神とともに生きる正しい人はいた(9)。自分の罪を環境のせいにはできない。現代でも神とともに生きる事はできるのだ。
2.神の裁き
神は忍耐深いお方なので簡単に裁くことはなさらないが、やるときには徹底的にやる。極端に罪深い者だけを滅ぼすのではなく、全地の全人類を滅ぼす。神は聖い方。聖さは完全な裁きによって全うされる。自分が極端に罪深くはないからといって安堵するのは愚か。神は罪ある世界を残念に思っている(7)。人だけでなく動植物を犠牲にしても罪を消し去りたいと思っておられる。
3.救いの箱船
神は聖いだけでなく愛のお方。裁きと共に救いの道を用意された。箱船の設計は緻密で配慮に満ちている(15)。長さと幅が6対1というバランスは、安定性が高い。内部が三階構造というのも底面積を広げ、動物たちの居場所を確保するのに役立つ。裁きだけでなく救いもまた徹底的。その救いに招かれるのは、主に従う者。従わない者はむりやり排除されたのではなく、箱船など無意味と思い、寄り付きもしなかったのだろう。救いの箱船に乗るには信仰が必要だったのだ。
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1.罪の誘惑
罪の本質は神への反逆。サタンは蛇を用い、神に従うことは損で愚かだと誘惑する。誘惑者に惑わされるのは、神のことばから心が離れているから。神は「必ず死ぬ(2:17)」と言われたのに女は「死ぬといけない」と言葉を弱め、いっしょにいながら夫も正さなかった。その言葉なら「死ぬかもしれない」という意味であり、「死なないかもしれない」とも思えてしまう。
2.罪の結果
蛇の言う通り彼らの目は開き、恥ずかしくなかった裸を隠すようになった。知的にはいくばくか成長したが、満足を生むどころか尊厳を失って自信がなくなってしまった。ヒューマニストは最初の罪を神からの自立と評価するが、造り主からの自立は被造物にとっては破滅でしかないことを見落としている。神は罪にもがく人に「あなたはどこにいるのか」と問い、罪のみじめさを自覚して悔い改めるようにと招いて下さった。
3.解決の約束
神は罪を放置せず裁く。裁きのことばの中の15節は最初のキリスト預言。「女の子孫」がキリスト。キリストがサタンの頭を踏み砕き滅ぼす際、サタンはキリストのかかとにかみつく。これが十字架。神は罪の直後に贖いを計画して下さっていた。皮の衣も着せてくださった。罪のまま永遠に生きる最悪の事態を避け、いのちの木の実への道を閉ざされたのも愛の故。神は愛なのだ。神は愛を込めて今も問う。「あなたは、今、どこにいるのか」と。
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1.神のかたちとして創造された人間
神は自画像を描くようにご自分の「かたち」を造られた。それが私たち人間。私たちは神を表す存在。「鏡のように主の栄光を反映させ(2コリント3:18)」、少しでも神の本質をあらわすことこそ私たちの存在意義なのである。
2.神のかたちとしての男と女
男と女はセットで造られた。その男女の人間が「神のかたち」なのである。夫婦が聖い愛で結ばれるような、人間同士の愛による一致は「父・子・み霊」の神が深い愛で結ばれて一体であることを表現する。教会の一致も、神のお姿を表す聖いものとなっているかどうかが問われる。
3.神のかたちとしての地の支配
神は人間を置物として造ったのではない。生きて働く者として造られた。神ご自身がアクティブなお方なので、私たちも何かをしたいと願う。神は「地の支配」を命じられた。地の支配は決して簡単な使命ではない。自分自身が危険に直面することも、やり方を誤れば地を破壊することもある。しかし神は冒険を避け何もするなと言うのではなく「地を従えよ」と言われる。私たちにも、支配するべき地がある。教会が一致してその地を正しく支配することが、神を証しすることになるのである。
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1.ロバの子をささげた人
ロバの子の持ち主は、突然弟子たちに自分のロバを連れて行かれ、驚いただろう。それでも「主がお入り用なのです」と聞いて納得したということは、主を信じて自分も何かしたいと思っていたからに違いない。また、道に自分の上着を敷いた人々も、ちょうどそこにいたからこそそれができた。主は、ささげたいと願う者をご存知で、用いてくださるのだ。
2.宮を聖めていただいた人々
エルサレムに入った主イエスは神殿に行き、商売人たちを追い出す。それは地方から礼拝に来る人々のためには必要と思われていた商売だったが、神殿をそのために用いるのは「祈りの家」の用い方としては間違っている。不便でも神殿の外でするべきこと。「宮聖め」と呼ばれるこの行為は、私たちの人生にも行われることがある。私たちは神のかたちとして造られた主の宮なので(コリント第一6:19-20)、その内側をきよめていただく必要がある。そうしてこそ、主に用いていただくことができるのである。
3.賛美をささげた子どもたち
こどもたちのさんびは、祭司長や律法学者の耳には、やかましいだけで無意味に思えた。しかし実はイエス様が救い主であることに気づかない愚か者が祭司長や律法学者であり、真理を悟ったこどもたちが「ダビデの子にホサナ」と賢く賛美していたのである。このこどもたちもその歌声が用いられた。主は、私たちを用いてくださるお方なのである。
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1.ヨハネの処刑
主のうわさが広まった時、ヘロデ大王の息子・ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは自分の手でヨハネを殺したことを思い出し、恐れた。彼にはすでに妻がいたが、異母兄弟の妻ヘロデヤを妻にしたことでヨハネに罪を責められたため、投獄し、最後には殺してしまった。ヘロデはヨハネを一方では尊敬し喜びつつも、対面や貪欲ゆえに王であることを捨てられず、悔い改めの機会を失なった。王であることが捨てられないのはヘロデだけだろうか。イエスを神を、主として王として迎えているだろうか。
2.遣わされる世
12人の派遣の記事の中にバプテスマのヨハネの死が語られている。それは彼らの宣教を示す。主は旅先の備えを語られたが、宣教の戦いも忘れてならないことを教えられる。彼らは悔い改めと赦しのため遣わされるが、先駆けがヨハネであり、主の十字架である。その言葉を喜ぶ人たちが、同時に拒み十字架へと追いやる。しかしそれは弟子たち自身が味わった弱さでもある。
3.遣わされる者の慰め
ヘロデはヨハネを殺したものの、その言葉を忘れることができない。人は殺してもその言葉が残った。人は弱さゆえに神の言葉を拒むが、神はなお機会を与えられる(使徒3:13-19)。またその働きが実を結んでいないように見えても神は僕たちの終わりを尊び、受け取ってくださる(29、黙示21:3,4)。それゆえ望みを持って伝えていきたい。
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