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礼拝メッセージ(2005年6月)

2005年6月26日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:マタイの福音書 17章14-20節
宣教題:「からし種ほどの信仰」
國分牧師

1.弟子は直せなかった(14-16)

弟子たちは主から悪霊を追い出し病をいやす権威が与えられていた。(10:1) しかしこの時には直せなかった。なぜか。弟子たちはきちんとやったはずと自己弁護(19)。主はその弟子たちの不信仰を嘆かれた。彼らは与えられた権威を自分の力と錯覚し、主の権威に頼ることを忘れてしまったからなのだろう。

2.主のがまん(17-18)

主は弟子ですら不信仰であることをがまんしている。私たちのこともがまんしてくださるだろうか。愛の主はがまんしてくださる(コリント第一13:7)。そうでなければ、身代わりに十字架にかかれはしない。しかしがまんしているということは、成長を望んでいるということでもある。主の期待に応え成長を目指す熱意はあるか。

3.からし種ほどの信仰(19-20)

からし種は砂粒のように小さい。弟子たちはいやせなかった原因すらわからない(19)。それほど信仰が薄い、からし種ほどの信仰すらないのである。私たちもまともに山に向かって動けと言う度胸はなかなか持てない。しかし山を動かすのは私たちの力ではなく全能の主の力なのである。せめてからし種ほどの信仰でも持ってほしいと主は期待しておられるのである。


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2005年6月19日

メッセンジャー:高松和代伝道師
聖書箇所:マルコの福音書 6章7-13節
宣教題:「遣わされる」
高松伝道師

1.神の国の大使(7)

郷里で拒絶を受けた主は徹夜の祈りをもって召された弟子、12人を遣わされる。彼らにご自身の「救い主」のしるしでもある汚れた霊を追い出す権威と力を託し、主の代理人として送り出される。12人とは新しい神の国イスラエルの始まりを告げ、主イエスが告げられた神の国の到来を示す。2人ずつ遣わされるのは福音の真実さを証明するため。(申命記19:15)

2.働き方(8-11)

遣わすにあたり主はできる限り軽装で行くようにと、持ち物を制限される。それは神の国の到来を急いで告げる必要(出12:11)があるだけでなく、すべてを神に期待して出て行くことを示している。彼らを受け入れ必要を満たす家が備えられている。しかし同時に受け入れない人々がいる厳しい現実も教えられる。その時には異邦人のように扱い警告を残して次に進む。

3.遣わされた者として生きる(12-13、30)

弟子たちはこれまでも主に叱責を受けてきたし、この後も主を落胆させ厳しく叱られる欠けだらけの者。しかし主は託された使命をそのとおりに果たさせてくださる(12,13)。パウロが語ったように弱い者を選んでご自身のわざをなされるのが神の方法(1コリント1:26-28)。遣わされる者にとって必要なのは、常に主のもとに帰り(30)、主にとどまり教えられていること(3:14)、信頼によって働くこと(8.9)。


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2005年6月12日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:ヨブ記 42章1-17節
宣教題:「試練の終わる時」
國分牧師

1.悔い改め(1-6)

ヨブは理不尽な苦しみの意味を問い続けた。38章-41章の主のことばには苦しみの意味の解明はない。にもかかわらずヨブはへりくだって悔い改めた。それは知的に納得したからではない。「この目であなたを見ました」と語ってるように、主の存在をリアルに感じ、その結果、摂理(3節)を認めない自分の愚かさを認めたのである。摂理とは人間の理解を超えた神の導き。結果が全てでなくてはわからないことを、先にわかろうとしたことが愚かだったのである。ヨブは改めて主に委ねることを選びとり悔い改めた。

2.とりなしの祈り(7-10)

注目すべきは友人たちもすなおに主のことばに従い、さんざん責めたヨブにとりなしの祈りをしてもらったこと。またヨブも自分のプライドをズタズタにした友人たちのためにとりなしの祈りをしたこと。本当にへりくだっていなくてはできない。みことばは彼らをへりくだりに導いた。

3.益としてくださる(10-17)

そのとりなしの祈りをした時、ヨブはいやされる。とりなしの祈りは、真に主に従い主に期待する心の現れ。ヨブの人生は、これ以後の半生の方が以前より祝福された。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)の通り。ヨブほどの苦難もないがヨブほど祝福された人もいない。終わったときに始めてわかる。試練も恵みなのである。


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2005年6月5日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:歴代誌第一 29章1-19節
宣教題:「喜びのささげもの」
國分牧師

1.郷里の人々のつまずき(1-3)

主の郷里ナザレにも、これまで主がなされたことは伝わっていた。神の国の実現を待つ人々の期待は大きく、主はすぐ会堂に招かれた。しかし主のことばは人々の期待と異なる。神からの知恵と力を思わせたので驚いたが、それを受け入れることが出来ない。彼らはイエスも家族もよく知っていたから。つまずきの原因は誤った期待と一面だけで主をよく知っていると思い込むことにある。

2.主イエスの驚き(4-6)

これまで主の回りには主を求める人々がいた。中風の人を連れてきた友人たち、長血の女やヤイロ、彼らは主に近付く困難を越えて信仰の手を伸ばし恵みに預かった。だが身近な人たちが主を認めない。身内、家族も同様。(3:21,31) 主は驚かれる。主は聖なるご性質のゆえに、ただ奇跡を行うことができない。だが主はなおナザレを遠く離れず近くを回られる。主はつまずいた者らを見捨ててはおられない。

3.郷里の人は私自身・誰もがつまずく(14:27-30)

主は弟子たちに「あなたがたはみな、つまずきます。」と言われた。著者マルコやペテロはまさにつまずいた人。山の上ですばらしい告白をした一番弟子のペテロは主を知っているつもりだった。しかしつまづいた。マルコもつまずきやすい人だった。しかし二人とも主は見捨てられない。主の兄弟ヤコブもユダも後には教会の柱となった(1コリント9:5)。郷里の人たちは私たち自身のこと。つまづきやすい私たちだが、主は見捨てられない。主により頼み、肉の目でなく霊の目を上げ、信仰を持って、主を待ち望むものでありたい。


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