

1.郷里の人々のつまずき(1-3)
主の郷里ナザレにも、これまで主がなされたことは伝わっていた。神の国の実現を待つ人々の期待は大きく、主はすぐ会堂に招かれた。しかし主のことばは人々の期待と異なる。神からの知恵と力を思わせたので驚いたが、それを受け入れることが出来ない。彼らはイエスも家族もよく知っていたから。つまずきの原因は誤った期待と一面だけで主をよく知っていると思い込むことにある。
2.主イエスの驚き(4-6)
これまで主の回りには主を求める人々がいた。中風の人を連れてきた友人たち、長血の女やヤイロ、彼らは主に近付く困難を越えて信仰の手を伸ばし恵みに預かった。だが身近な人たちが主を認めない。身内、家族も同様。(3:21,31) 主は驚かれる。主は聖なるご性質のゆえに、ただ奇跡を行うことができない。だが主はなおナザレを遠く離れず近くを回られる。主はつまずいた者らを見捨ててはおられない。
3.郷里の人は私自身・誰もがつまずく(14:27-30)
主は弟子たちに「あなたがたはみな、つまずきます。」と言われた。著者マルコやペテロはまさにつまずいた人。山の上ですばらしい告白をした一番弟子のペテロは主を知っているつもりだった。しかしつまづいた。マルコもつまずきやすい人だった。しかし二人とも主は見捨てられない。主の兄弟ヤコブもユダも後には教会の柱となった(1コリント9:5)。郷里の人たちは私たち自身のこと。つまづきやすい私たちだが、主は見捨てられない。主により頼み、肉の目でなく霊の目を上げ、信仰を持って、主を待ち望むものでありたい。
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1.息子を愛する父
父親は神を表している。父に注目して学んでみよう。父は息子たちを愛している。自己中心で父への感謝がない弟息子の願いさえ受けとめるほど彼を思っていた。なぜ財産を分けたのか。そうするなら浪費することが予測できなかったのだろうか。そうではなく、財産を失うことは覚悟の上だったのだろう。父には財産を失っても得たいものがあったのだ。
2.息子は死んでいた
「この息子は死んでいた」と父は言う。死んでいたというのは財産を失ったことではない。財産を失う前にすでに息子の心は自分から離れていたので関係が「死んでいた」のである。彼が自分から父の元に帰り、父にわびたのでその関係が「生き返った」のだ。財産よりも心が通うことの方が父の願いだった。さらに、死んでいたのは弟だけではない。兄とて同じ。彼は真面目だが弟を迎えた父を受け入れられなかった。兄も「死んでいた」のである。
3.和解を求める父
私たちは弟だろうか兄だろうか。単純にどちらかと言うよりも、その両面を持っていると言うべきだろう。私たちの心は分裂している。真面目になれば人を裁き、自分の喜びを追求すれば、刹那的に。私たちは両極端をふりこのように繰り返す。悔い改める心の片隅に裁く自分がいる。父は兄が祝宴に同席し、兄と弟が和解することを望む。父の元で、私たちの内の分裂した心が和解し、一つになることを父なる神は願っておられる。
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1.主に立ち返れ(12-13節)
ヨエルの時代、いなごの害という天災で人々は苦しんでいた。その苦しみのさなかで預言者ヨエルは「主に立ち返れ」と叫ぶ。ヨエルは天災を主の怒りのメッセージとして受け止め、その応答としての悔い改めを呼びかけたのである。私たちは身の回りの出来事をいちいち神の語りかけとして受け止める余裕も理解力もない。しかし深く考えさせられる出来事に直面したなら、立ち止まって主のみこころを考えるべきである。
2.心を引き裂け(13節)
主は真の悔い改めを望まれる。しかし悔い改めたふりをして着物を裂くこともあったのだろう。主はポーズではなく心からの悔い改めを求められる。引き裂くような痛みを心に感じない悔い改めなどない。
3.わざわいを思い直してくださる(13-14節)
主は悔い改める者を受け入れ、罰としての災いさえ思い直してくださるお方である。人間は主のように寛容ではないので、「どうせゆるしてもらえるはずがない」とあきらめてしまいやすい。人間と神の赦しはどこがちがうのか。主は赦すために御子イエス様の十字架という犠牲を自ら払われる。だから赦せる。相手の罪の罰を代わりに受ける者だけが真に赦せる。主はあわれみのしるしとして、信じる者に聖霊を下さる。それが明確になったのがペンテコステ。その日から、主が本当に私たちをあわれんでくださることが明らかになった。主は本当に情け深い。
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1.神のものを盗んでいる(8-9節)
十分の一献金は律法で規定された献げものの原則(レビ27:30)。しかし強制徴収される税金とは違い、実際に献げるかどうかは本人しだいであり、献げない人、献げる額を少なくする人が大勢いた。マラキ書の時代はほとんどの民は貧困にあえぎ、信仰がすたれ、不正がはびこっていた。その問題は献げものにはっきり現れていたのである。
2.あふれるばかりの祝福(11-12節)
神はみ子イエスを与えるほど豊かに与えるお方である。主イエスは神のご真実を信じて神の国とその義を第一に求めよと教えられた(マタイ6:33)。しかしマラキの語る祝福は宝くじのようなその時だけの祝福ではない。いなご等の天災から守られ労苦が報われるという祝福である。今だけでなく明日へと続く祝福を主は与えてくださるお方である。
3.チャレンジ(10節)
ぎりぎりの経済状態で生きている民に献金のチャレンジを与えるのは、本気で神の祝福を期待している現れ。ささげものをケチケチすることが、かえって人々に与えられるはずの祝福を遠ざけ、出費をセーブしたつもりが、思わぬ出費や収入の減少によって無意味になってしまう。そんな罪深い知恵ではなく信仰によって主からの祝福を得、真に豊かになって欲しいと願う、だからこそのチャレンジ。今、私たちへのチャレンジとして受け止めよう。
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1.人の計画と神の目的(1,2,4,9節)
人間は自分の人生に計画を持つ。それ自体は大切であり、計画をもてないことは悲劇。しかし、人間の思いだけでなく神の目的も存在していることを見落としてはならない。自分では良い計画をたて、誠実に生きていると思っていても、実は誤った生き方をしているということはしばしばある。真に実現するのは神の目的のほうなのである。
2.罪のむなしさと信仰の祝福(5-8節)
人間の思いではなく神の目的が実現するなら人生には意義がないのか?自己満足・自己実現を人生の目的と考えるならそうなる。しかし、神の裁きと報いを人生の目的とするならば違う。自分の生き方に自信があると心おごる者は、人生の全てを記録されている神に罰せられる(黙20:12)しかし主を恐れる者は、罪を贖われ、神に祝福される。
3.主にゆだねるという結論(3節)
主にゆだねるということはどういうことなのか?しばしば誤解されるように、お祈りだけで自分は何もしないということか?イザヤ46:3-4を参照。積極的にゆだねる意識がなかったとしても、私たちは生まれたときから主にになわれてきた。その神の真実を信じて結果をまかせるなら、自分の望む状況にいなかったとしても神の計画を信じて平安を保ち、神の愛を喜ぶゆえに今できるやるべきことを精一杯し、やるべきでないことを避ける。信仰は消極性や無謀さではなく、バランスのとれた積極性を生み出すのだ。
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