

簡単に他人を赦せないことを私たちは毎日経験している。が、愛される経験のある人は他人を愛せるように、赦しの経験のある人は他人を赦しやすい。
イエス・キリストは私たちを愛し、罪を赦すために、十字架にかかり、信じる者には、愛し、赦す恵みを与えられる。
それを経験した教会に、主はそれを証しするように命じられた。教会は、実に激しい迫害の中で、それを2000年以上証ししてきた。教会が、それができるのは、聖霊の注ぎを受けているからである。
十字架にかかり、三日目によみがえられた主は、弟子たちに罪の赦しを伝えるように命じられた。(ヨハネ20:19-23)このことは、ペンテコステの日、聖霊が、弟子・信徒たちの上に臨まれた時、教会誕生の日から始まった。その時主は、エルサレムと同時に地の果てを宣教するように命じられた。(使徒1:8、マルコ16:15、マタイ28:19-20)
罪の赦しの福音は、それを経験した者によって、身近な人と同時に、地の果ての人にその効力を発揮する。日毎の個々人の他人を赦す証しこそ、教会が教会であり続け、クリスチャンが、真のクリスチャンであり続け、人々が罪の赦しの恵みに引き寄せられ、教会が成長する力となるのである。
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1.落胆している者
ヨブ記はこれ以上ないほどの人生の痛みを経験したヨブの話。彼は主に忠実な信仰者で、家族にも経済的にも恵まれて人生の幸福の絶頂からそれら全てを失う(1章)。それでも簡単には弱音を吐かなかったが、友人たちに囲まれてついに落胆の言葉をもらす(3章)。ところが友人たちはヨブを慰めるのではなく、落胆の言葉を責め、ヨブに追い打ちをかける(4-5章)。
2.過てる正義感
なぜ友人たちはそんなひどいことをしてしまったのか。彼らはヨブの苦しみの原因を知らなかったが、絶望したヨブの激しい言葉を聞いていられなかったため、わかっているかのように語ってしまったのだ。すなわち彼らにはあえて沈黙に甘んじ傾聴する忍耐と、無知を認める謙虚さが欠けていた。忍耐と謙虚さがないと、人は容易に過てる正義感で行動してしまう。
3.友情を
落胆しているヨブの求めているものは友情。変わらぬ愛。決してまっすぐであっても痛いことばではない(25)。罪人である人間にとって悔い改めが大切なことは言うまでもないが、同じ罪人である人間が、主に悔い改めることを要求することはできない。ヨブ記の最後にはヨブも悔い改める(42:6)が、それは主ご自身の愛への応答であった。自分も罪人であることを謙虚に認め、何も知らないこともどうしていいのかわからないことも謙虚に認め、それでも痛みに同情して共感する心を主に与えていただきたい。(ローマ12:16)
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キリストを信じ、新生した者は『神に選ばれた人々』と呼ばれつつも、この世においてはやはり少数派で、『寄留者』としての歩みをしています。しかしそうした身分は、実は、大変祝福に満ちた身分でもあることに、ペテロは私たちの目を向けようとしています。
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1.喜びに富む(1-4)
マケドニアの諸教会(ピリピなど)は、極度に貧しかったのに、自分たちの力以上に他教会の必要のために献げた。彼らは献金は「聖徒を支える交わり」と考え、交わりに参加できる事は恵みと思っていた。私たちも真に価値ある事にはなけなしのお金をも喜んではたくだろう。
2.恵みのわざに富む(5-9)
主イエス・キリストはご自分を献げてくださった。その犠牲によって私たちは滅びを免れた。その信仰があるなら、救い主のみわざに自分が用いられることは感謝なことである。どんなに地上で裕福でも主のためには何も役立てないなら貧しい生き方。主に自分をささげ、他者のためにつくす事は「恵みのわざ」であり、富んだ生き方なのである。
3.恵みのわざをし遂げる豊かさ(10-15)
喜んでしようと志した献げものは持っているものでし遂げられる。献金は神に与えられた一部をお返しする事だから、主が献げるべきものを与えてくださる(黙4:4,10-11)。貧しいので少ししか献げられないと思うのは主の支えを信じないから。自分自身の信仰の表現として献げよう。主はその信仰を喜ばれる。
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