

1.そっと弟子に近づかれる主
主はご自分を隠し弟子たちと共に歩む。二人がエマオに向かう理由は不明だが、主がエルサレムに戻らせたことから推察すると、弟子集団から距離をおこうとしたのかも。そんなボロボロの状態で自分では気がつかなくても、実は主の取り扱いの中にいるのだ。(15-16)
2.みことばを教えられる主
道々主はキリストの受難と栄光について旧約聖書を解き明かしてくださった(創3:15,イザヤ53:5-6,12)。主が直接話しておられるとは知らなかったのに、そのみことばに二人の弟子は心が燃え、もっと学びたいと強く願った(25-32)。主の弟子の特質はみことばを学びたいという願いがあるかどうかに示される。ボロボロの二人だったがやはり主の弟子だったのだ。
3.ご自分を示してくださった主
主は最後までご自分を隠すのではなく、夕食の時にパンを裂いて彼らの目を開かれた。二人は一旦は失望したが、主が生きておられ、自分たちを忘れておられなかったことを知り、自分のうちにも主のみことばを慕い求める思いのある事を確認し、心が燃やされ、すぐにエルサレムの弟子集団に戻った。心に燃える思いこそ、教会の祝福となるのだ。
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1.恐れてはならない
イスラエルが向かっていく先には強大な敵がいた。しかし主は彼らを恐れてはならないと言う。なぜか。本当に恐れるべきなのは、体を殺すことしかできない人間ではなく、死んだ後で地獄に落とす権威を持っておられる主ご自身だからである。(ルカ12:4-5)
2.主ご自身がともに進まれる
もっと強い存在がいるとはいえ、自分だけで戦うには相手はやはり強大である。しかし最も強いお方である主が味方ならば何も恐れる事はない。主とともにいるためには、主に積極的に従うことである。そうすれば、主がともにいてくださるという約束が与えられる(マタイ28:20)。
3.主は私たちを見捨てない
主のご命令にしばしば背く私たちは主に見捨てられないのだろうか。驚くべきことに主は一旦ご自分を信じた者が不忠実になっても「見放さない」と言われる。(6節,8節)。挫折したならば、やり直すことができる。罪を犯したなら、悔い改めれば赦される。私たちを見捨てないためにこそ、主イエスは十字架にかかって私たちをあがなわれたのだ。
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1.ゲラサの男(1-5)
激しい嵐をしずめた主はここゲラサで内に激しい嵐を持った人に会う。「汚れた霊につかれた人」は聖い神と対極に生きる。その悲惨さは、他の人を傷つけ、自らも傷つけ、誰もどうすることもできない。
2.汚れた霊からの解放(6-13)
汚れた霊は、主の権威の前にひざまずくしかない。名の「レギオン」とはローマの軍隊を意味する。軍隊は大勢で相手を滅ぼすという一つの目的に進む。しかし主は権威により彼らを追い出され、乗り移られた豚は溺れ死ぬ。人のいのちは豚より、羊より勝る(マタイ12:12)。
3.町の人の反応と救われた人(14-20)
報告を聞いた町の人々の反応は7節の言葉に似ている。彼らもまた同じ霊の支配下にある(テトス1:15)。主イエスは救われた人に、残って「主があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったか」を伝えるよう命じられた。彼は、あわれみ救ってくださる「主」(19)とは、「神」(ルカ8:39)とは、ナザレから来たイエスであると信仰を証しする。
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1.苦しみの原因=先祖たちの咎・私たちの罪 (8,9節)
BC605,597,586年と、バビロニア帝国はエルサレムを攻略し、神殿も破壊・略奪された。多くの人が殺され、また6万人もの人々が捕虜となった。この苦しみの原因は「先祖たちの咎」(8)と「私たちの罪」(9)。ということは罪の故の裁き。幸いも災いも主が与えるのである。
2.御名がそしられることを苦しむ (4,12節)
「私たち」がそしられた(4)ことだけんでなく、「あなた」すなわち主がそしられている(12)ことは非常な苦しみ。「私たち」は聖徒なので、聖徒のそしりは主のそしりである。主は罪を嫌うので、たとえ異邦人に御名をそしられても聖徒の罪を裁く。結果として自分たちの罪が主の御名をけがしている事は非常な苦しみ。このように主の御名を大切にする思いが私たちにもあるだろうか。
3.救いの理由=御名の栄光のため(9節)
苦しみからの救いは主が罪を赦してくださるかどうかで決まる。自分たちには赦していただける理由などないので、恩赦以外には可能性がない。それで主がご自分の御名の栄光のためにあえて救ってくださることを求めるのである。この救いは主イエスの尊い命を犠牲にしてもたらされた。父なる神は主イエスさまに免じて私たちを赦してくださる。主は滅ぼされて当然である私たちを救うことによって、栄光をお受けになるのである。(黙示録5:9, 12)
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