

1.訓練としての苦難(2-3,5)
苦難を望む者はいない。しかし苦難に直面しないとわからないこともある。苦難の時には心の中にあるものがはっきりと現れるので主に従うかどうかも明らかになる。イスラエルは幾度もつぶやき背いたが、そのたびに悔い改めも経験した。苦難は信仰の訓練なのである。2.苦難の中での恵み(3-4)
イスラエルは荒野の放浪の間も食物としてマナが与えられ「着物はすり切れず、足もはれなかった」。滅ぼすための苦難ではなく訓練なのである。だから恵みも与え守られる。パン(自己の力で得たもの)だけで生きるのではなく主の恵みで生きることを学ばせるために。
3.祝福へと導かれる主(7)
こどもにおやつを与えるには、まず手を洗わせることが大切である。きたない手を清めるまで「おあずけ」するのは配慮である。祝福を与えようと真剣に考えてくださるからこそ、主はまず苦難によって心の中を明らかにさせ、悔い改めて整えられた民へと成長させる。私たちも祝福を期待する。恵みを受けられるよう、まず主のことばをよく聞こう。
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1.わたしはあなたの神(6)
1-4番目の戒めは、神との関係で、5-10番目は対人関係の戒め。神との関係が対人関係より先。裁き主がルールの権威。裁き主である全知全能の神を認めない人は、人間しか恐れない。そういう人は、誰にも見られていなければ何でもする。誰も見ていない時に自分の本当の姿が出る。2.ねたむ神(9)
裁き主はどういうお方か。神はねたむ。愛されることを求め、ご自分を愛する者は格別に恵む。しかし9,10節を比較するなら恵みの方が大きいことがよくわかる。十戒の目的もしあわせを与えるため(29,33,6:3)。神はわたしたちをしあわせにしたいと真剣に願い、私たちの生き方を熱心に見ておられる。神を愛し、神から豊かに恵まれる生き方こそ、十戒の目指す人間像。
3.父と母を敬え(16)
人間関係の戒めの第一(エペソ6:2-3)。父と母は人間の中で最も神的な存在。やはり神との関係が大切。しかし現実はどうか。「殺すな」「盗むな」「偽るな」の三つ以外は軽んじられ、その三つも日々犯されている。神との関係を正す以外には解決はない。神の前に悔い改め、主イエスの十字架で赦していただこう。そして、神の喜ばれる生き方を選びとる決意をしよう。
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1.教えを聞く
私たちは子や孫に何を伝えるのか。それは時代が変わっても古びずに絶対に自信を持って薦められるもの。また、愛する子や孫たちがどうしても知らなくてはならない真理である。それは主の教え以外にはない。まず私たち自身が主の教えを聞き、よく知る必要がある。十戒をよく学ぼう(13)。2.教えを守り行う
聞いても聞きすごしてしまった言葉には説得力はない。聞いた教えを守り行ってこそ、伝えることができる(6)。だから主の教えには付け加えても減らしてもいけない(2)。自分なりにアレンジした教えはもはや主の教えではなくなる。自分ではなく主にすがる者は生きる(4)。
3.子どもや孫に教える
9節には教えを忘れないようにという注意と子孫に伝えることとが両方記されている。他者に教えることこそ、教えを忘れず覚える秘訣なのである。道徳が頽廃して混迷する現代社会は、先祖から伝えられてきた思想の意義を再確認している。私たちの後に続く世代も、私たちから確実に何かを学ぶ。願わくは真に良いもの=主の教えを伝えたい。
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1.人手によらず(26-29)
主イエスは期待する群集に、良い心で御言葉を聞くと豊かな実を結ぶ、聞き方によって祝福は増し加えられる、と教えられた。でも人は思う、どこにそのような祝福は現されるのかと。そこで主は、神の国の恵みは種のように目立たないが確実にまかれた人に豊かな実を与えると教えられる。人はその過程を知りえないほど無力だが。2.生長する種(30-32)
からし種は当時最も小さい種と言われた。1グラムで七百粒あまりあると言う。まかれても鳥もついばめない小ささで、人の目に留まらない。しかしそれが芽を出し生長する時、鳥はその陰に休み場を見出す。大きさだけが変わるのではなく、その役割、質が変わる。私たちにまかれたみことばの種は、私たち自身の役割さえ変えて御国を広げていく。私たちはそれを信じ、神の国の望みに歩みたい。
3.解き明かされる主(33-34)
主は私たちの聞く力を知り、またすべてを解き明かそうとしておられる。だから私たちは今必要なことを主に聞き、変えられていきたい。
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1.主イエスの宣教
主イエスが弟子たちを招いた時、すでに彼らはイエス様を従うべきお方と認めていた。主の宣教を聞いていたのだろう。主は「神の国は近い」と語られ、私たちが罪に満ちた「この世」に留まるのではなく、悔い改めて「神の国」に入るべきことを教えられていた。2.主イエスの招き
主は単にことばで語るだけでなく、模範で教えられる。主の模範を見るようにと弟子は招かれるのである。そして主から学ぶ者は「人間をとる漁師」へと成長させられる。人々のたましいを取り扱い、悔い改めさせて「神の国」へと導く者にさせられるのである。
3.主に従う者
ペテロたちはそれまで大切であった自分の網を捨て、ヨハネたちは舟や父親を残して主に従った。主イエスの宣教に心が捕らえられ、主ご自身に従いたい、神の国のために働きたいとの願いが起こされていたのだろう。しかし職業を捨てたり家族をおいていくのは大変なこと。本当に主の招きなのか勘違いなのか、その差は大きい。主の招きの言葉を誤解なく受け止めたい。そのため日々祈りとみことばの通読に励み、主のお心を知る者にさせていただこう。
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