

1.「今こそ」という期待
この時点での弟子たちの期待と、その後のキリスト教会の歩みはかなり異なる。それは人間の考えと主のお考えの違いと言えよう。私たちも主に期待する者であるが、その期待には主の御思いとは異なる面があるかもしれない。
2.知らなくていいこと
主は弟子たちの考えを正された。彼らを用いたいと思うからこそ、そうされた。将来のことは父なる神にゆだねなくてはならない。今なすべきことは十分ある。(マタイ6:34)初代教会の歩み全体を通じて主はこのことを教えられた。私たちも主に用いられる者であるならば、委ねる者となるように正され続けるであろう。
3.聖霊が私たちを用いられる
聖霊の力を受けても弟子たちはスーパーマンになったわけではない。いつも周囲の状況に翻弄され悩みながらの歩みだった。なのに地の果てまで福音宣教を進めることが出来た。それは使徒というより聖霊のお働き。聖霊は今も私たちを用いて働きを進められる。このお方に「私を用いてください」と積極的に委ねよう。
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1.信じる人と信じない人
パウロはローマの主だったユダヤ人たちに福音を語るが、信じる人と信じない人とに、意見が対立する。なぜか?先入観が災いしたのだろう。律法軽視ではないか、ローマからの独立こそ救いだなど。今日でも、同様の先入観がある。ご先祖様を軽んじないか、あるかないかわからない天国より現世利益等。主イエスが「平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」(マタイ10:34)と言われたように、福音は人間の本音を暴露させるので対立も生まれる。
2.神の救いは異邦人に
主はもともとユダヤ人だけでなく全ての人の救いを考えておられた。使徒1:8で「エルサレム→ユダヤとサマリヤ→地の果てまで」と主イエスは語っておられた。これまではユダヤ人のいるところを訪ねての宣教だったが、その段階は終わり、今後は誰にでも伝えるようになる。パウロは訪ねてくる誰にでも主イエス・キリストを教えた。
3.全ての人の救いのため
パウロは異邦人の救いが同胞に主に立ち返る思いを起こさせ、結果的に同胞の救いにつながることを期待している(参考ローマ11:11,14)。主のみわざこそ最善だと信じよう。
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1.湖上で教えられるイエス(1)
ガリラヤ湖、それはイザヤが「大きな光が照った」と預言した地。ここから主イエスは神の国のよきおとずれを伝え始められた。しかし集まる人々はなんと多様だったことか。同じことを聞きながら、なぜ人々は異なるのかたとえが解き明かす。
2.たとえによって教えられる(2)
たとえは警告であり、訓戒であり、また謎でもある。(詩篇49:4、78:1エゼキエル17:2)。それは分かりやすさよりも注意して聞かなければならない大切なこと。心に残る印象的なことばで語られる。たとえは理解されると人の生き方や価値観を変える。
3.たとえが示すこと(3-20)
種は神のことば。小さくつまらないように見えても命と力がある。地は人の心。土から造られた人間にふさわしい。たとえから3種類の不毛の地が語られる。かたくなな心、一時的な熱狂主義、この世に心奪われる人たち、それぞれは芽を出さず、成長せず、実を結べない。しかし良い心で聞く人たちは、成長し続け、実を結び続ける。その人の特徴は召してくださった主のもとにとどまり、御言葉を絶えず求め続ける。その人は神の祝福の中に生きる。
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1.島の人々の親切
いのちからがら上陸した一行に島の人々は非常に親切だった。
276人の暖をとる焚き火を用意するのは大変。島の首長とはいえ276人を領地に迎えてもてなすのも大変。邪魔扱いされてもおかしくない状況で受けた親切は本当にうれしかっただろう。
2.動じないパウロの信仰
感動的な救助活動の場でけちがつく。率先して火の番をするパウロにまむしが噛みついたのだ。しかも島の人々にはきっとパウロが悪人だから天罰を受けたのだと誤解された。このような逆境におかれるとつぶやきやすいが、パウロはただ蛇を火の中に振り落とした。まむしの毒も主の守りの前には無力。それを当然と信じる信仰は見事。
3.勇気づけられる経験
強い信仰があれば励ましはいらないと思うのは誤り。パウロは兄弟たちに出会って勇気づけられた(15)。ルカは島の人々との愛の交流を忘れずに記録した(10)。愛の主は人々が愛し合うことを望まれる(Iヨハネ3:23)。パウロ自身も他の人々をいつも励まそうとしていた。私たちも人々を励ますため「親切なもてなし」を心がけよう。
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神さまが彼等に答えて下さっており、助けて下さろうとしておられるのに、当時のイスラエルの民たちは「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と思い込み、そう言っていたのです。
(一)「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」(→イザヤ書49章14節)
神さまに選ばれ、神さまに愛されておりながら、このように思い込み、こんなことを言っているようでは、神さまのしもべとしては役に立ちません。
(二)「このわたしはあなたを忘れない。」(→イザヤ49章15−16節)
@たとい、女たちが自分の乳飲み子を忘れるようなことがあっても。(→15節)
A「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」(→16節)
「手のひら」は正確には、「両方の手のひら」です。
神さまは「見よ。わたしは両方の手のひらにあなたを刻んだ。」と仰せているのです。
むすび.
私たちの救い主キリストは、あの十字架の上で、私たちに代って苦しみを受け「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」(→詩篇22篇1節、マタイの福音書27章46節)とお叫びになった御方です。
私どもは、自分が犯した罪のために苦しみを受け、苦しさの余り、自分は神さまに見捨てられ、神さまに忘れられてしまったと思うようなことがあるかも知れません。しかし、私たちの救い主キリストは、その苦しさと、救いようのない落ち込んだ状態をもご存知です。
そして、そんなときにも、救い主キリストがあなたと共におられるのです。期待通りに、すぐ答えられなくても、あなたに答え、あなたを助けて下さる御方がおられるのです。
「このわたしはあなたを忘れない。」とのみことばを信じて、主を待ち望みましょう。
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