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礼拝メッセージ(2004年7月)

2004年7月25日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:使徒の働き 22章16節
宣教題:「罪を洗い流すバプテスマ」
國分牧師

1.ためらい

迫害者であったパウロがキリスト者に転向するには自分を否定しなくてはならないので、ためらったのだろう。それまでずっと正しいと思ってきた道を否定するのは誰にとっても難しい。しかし、誤りやすい自分の判断を一番信じてしまうのが、最大の誤りである。

2.主のみ名を呼ぶ

自分を信じられなければ何を信じるのか。信じるものが何もないのは自己過信と同様に悲惨。真に信じられるのは、私たちを造り私たちを罪から救う主。主を求め、主にみこころを教えていただいてこそ、私たちは正しい道へ進むことができる。

3.罪を洗い流す

正しい道とは罪から救われた者として主のために生きることである。どんなに深い罪も十字架のあがないによって赦される。そして新しく造られた者として、主の使命を共に果たす「主の証人」という真に意義ある人生へと進むことができるのである。ためらわずに主を信じて罪を告白し、主に従う決意をしよう。


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2004年7月18日

メッセンジャー:高松和代伝道師
聖書箇所:マルコの福音書 3章13-19節
宣教題:「十二弟子の創設」
高松伝道師

1.山に呼び寄せられる人たち(13)

山は旧約以来、神の臨在と啓示のあらわされたところ。イサクが献げられ、モーセが十戒を受け、エリヤは神の声を聞いた。多くの群集や弟子たちが湖畔に集う中、主は特別にお望みになる十二人を山の上に呼び寄せられた。それは何かを学び取るだけの弟子ではなく、それ以上の関係を彼らに与えるためである。

2.12人の創設と目的(14,15)

「任命」は「造る」と言う言葉。創世記1章1節に用いられる。主はやがてもたらされる新しい天と地に先んじ、神の国の民として12人を造られる。また12人を召く目的は、まず何より主とともにいるため。はじめのアダムは神から離れたから。主とともに生きる人にご自身と等しい権威を与え御国のために用いられる。

3.12人の名簿(16-19)

主イエスはアダムが動物にふさわしい名を付けたように弟子に名を与えられた。12人を造った者としてどのように用いられるかを予知しての命名。主は私たちに新しい用いられる資質を備えておられる。喜びをもって従い遣わされて行こう。最後のユダの名は主から離れることへの警告。主とともにいることこそが、いのちの保持と、実を結ぶ秘訣。


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2004年7月11日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:使徒の働き 22章1-21節
宣教題:「主イエスと出会う体験」
國分牧師

1.弁明としてのあかし

パウロ自身もかつては迫害者だったので主イエスを否定する者の心はよく理解できる。その彼がどうして主イエスを信じるようになったのかを、主と出会った体験談として語った。実際の体験は、どんな理屈よりも雄弁に真理を主張できる。

2.ダマスコ途上の体験

使徒9章の体験。彼は自分から主を求めたのではなく、主が彼に近づかれたのでへりくだり、「私はどうしたらよいのでしょうか」と求めざるを得ないように導かれた。自信に満ちていた彼が主に道を尋ねるようになったこと自体が、大きなあかしである。

3.主によって異邦人に派遣される体験

このエピソードはここにしか記されていない。パウロは祈りの中で主のみ声を聞いていた。それだけ彼の祈りは主の前にへりくだった祈りだったのだろう。主のみことばが与えられたときに従う心を持つ者を主は用いられる。「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」(第一サムエル2:30)
 私たちもへりくだって主に祈ろう。


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2004年7月4日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:使徒の働き 21章17節-22章1節
宣教題:「この時のため」
國分牧師

1.裏目に出た配慮

ユダヤ人キリスト者にとって、律法の遵守と主イエスを信じる事には矛盾はなかった。パウロも律法を遵守していることをアピールしようとしたのは無用な摩擦を避けようとする配慮であった。

2.誤解による迫害

配慮は裏目に出て、パウロは律法をやぶったと誤解されてリンチされ殺されそうになる。ローマ兵に逮捕されることで命は守られた。人間的な努力ではどうにもならないこともあれば、絶対に無理と思う状況からも聖霊によって守られることもあるのだ。事は主による。

3.危険をおかしても弁明

安全な兵営に入るまで黙っていた方が身のためだったが、群衆に話す事を望んだパウロはあえて弁明を願い出る。摩擦を避けることはみこころではなかった。むしろぶつかりあうように主は導かれた。ならばこの時こそ、主の与えた時だとパウロは考えたのだろう。
私たちも配慮したにもかかわらず厳しい局面を迎えてしまう事がある。心騒ぐそのようなときこそ、主に従う道を求め、示されたみこころを選びとるべき大切なときだと考えよう。


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