
1. 驚くべき奇蹟(11-12節)
パウロの身につけていたものを病人に当てるだけで癒されるというのは驚き。それは何か霊的なパワーが衣類に染み付いたということではない。パウロの語る「みことば」に人々の注目を集めるための聖霊のみわざなのである。
2.魔術の敗北 (13-16節)
奇蹟に目を奪われ「みことば」に心を留めなかったスケワの息子たちは敗北する。彼らは信仰なしに主イエスのみ名を用いたのである。主の御名をみだりに唱えてはならない(出20:7)。彼らは魔よけ祈祷の経験から、パウロの方法を真似ればいいと勘違いしたのだろう。私たちは「みことば」を正しく受け止めているだろうか?
3.福音の勝利(17-20節)
聖霊のみわざは確実に進む。奇蹟が起きたことは小さな事にすぎない。それよりも「主のみ名があがめられるようになった」ことこそが福音の勝利である。その結果、信仰に入った者たちが罪を「さらけ出して告白し」、高価な魔術の本をみなの前で焼き捨てた。主のことばは力強く人々の心を変化させた。わたしたちもエペソの人々と同じように「みことば」に注目し、みことばによって心を変えていただこう。
一覧表に戻る

1.弟子たちへの批判(23-24)
安息日にイエスの弟子たちが麦の穂を摘むのを見たパリサイ人たちは、安息日違反と責める。パリサイ人らは安息日にしてはいけない事柄を微に入り細にわたり決めていた。
マタイはこの出来事を「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」との招きの後に置いている。
彼らは本来祝福であったはずの安息日をつまらない重荷にしていた。
2.ダビデの例(25-26)
安息日の戒めを守ることだけに心を奪われ、ただ規則を守ることだけが安息日の過ごし方と思う人たちに、規則以上に大切な事柄があると、主は気付かせられる。
そこでダビデの例を取り上げられた。それは人の必要であり、またダビデの子としておいでくださったお方からもたらされる安息である。
(コロサイ2:16、17)「…安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」
3.安息日の意味(27-28)
安息日は人のために造られた。創世記で安息の日は、神がすべてのものを完成し、非常に良く造ってくださった翌日。その日は私たちが造り主なる神を礼拝し、祝福を受ける日として造られた。
また堕落後には選ばれたイスラエルの民に、購いの御わざを覚え、神の民として生かされている特権を感謝し、礼拝に集う日として定められた。
主イエスは、ご自身の命によって私たちを購い神の民とし、また復活によって私たちを新しく造り、やがて来る新天新地でも礼拝に導いてくださる、終末にいたるまでの安息の完成者。
「人の子は」という言葉の中に、私たちの身代わりとして死なれ、栄光のうちに永遠の安息に民を迎え入れられる(マルコ10:45、13:
26、ヘブル4:9)主からの恵みが隠されている。
注)メッセージの中で「サウロの一人息子ヨナタン」とありますが、「サウロの息子の一人、ヨナタン」の誤りです。サウロにはヨナタン以外にも息子がいます。
訂正します(高松)
一覧表に戻る

1.キリストのよみがえりを語るのは無責任である。
キリストのよみがえりを語ることは、重大な責任を伴います。
キリストの復活を信じ、洗礼を受けてクリスチャンとして歩むことを選ぶなら、その人はそれまでの文化の一部を捨て、代わりのものをとるからです。
2.キリストを信じるのは根拠のないことである。
死人の復活が真実かどうかということにキリスト教の信仰がかかっていると、パウロは主張しています。本当に復活はそんなに大事なものなのでしょうか?そうした疑問は、今現在の方が、多くの人が持っていることでしょう。パウロは、復活のない信仰は、『実質のないもの』になり、『むなしい』ものさえなるというのです。
3.私たちの滅びは限りのないものとなる。
滅びとは、希望がなくなった状態だけでなく、罪故に人が受ける裁きも意味しますから、人間がどうしても避けなければならない事態です。
『しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。』とパウロが結論付けるとおり、私たちもイースター(復活祭)の恵みを喜ぶことが許され、改めて『復活の力』に生きることにしましょう。
一覧表に戻る

1.聞き従ったエペソの弟子たち(1-7節)
パウロがエペソで出会った弟子たちは、その信仰の欠けをパウロに指摘された。彼らは素直に聞き従い、主イエスの名によってバプテスマを受け、聖霊に満たされた。私たちは自分の信仰に欠けがあると示されたときに彼らのように素直に聞き従えるだろうか。素直に主に従う者を主は祝福される。
2.聞き入れない会堂の人々(8-9節)
以前もごく短期間エペソの会堂でパウロは論じた(18:19-21)。その時にはもっと話を聞きたがった人々が、今回は三ヶ月も学びながら公然とののしる。かたくなな心とは悔い改めない心である。いくら学んでも悔い改めないなら自己正当化の反論が出てくる。議論で負ければ暴力的にもなる。私たちはどうだろうか。
3.多くの人々が主のことばを聞く(10節)
パウロは争いをさけてユダヤ人会堂から身を引いたが、ツラノの講堂は一般人も集う所だったようで、かえって多くの人々に福音を伝える結果となった。自己の正しさの主張よりも、福音宣教を優先したパウロの謙虚さが、主に祝福されたのである。
一覧表に戻る
音声を再生するには、Windows Media Player または Real Player が必要です。
