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礼拝メッセージ(2004年2月)

2004年2月29日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:使徒の働き 18章12-23節
宣教題:「神のみこころなら」

1. 第二次伝道旅行から第三次伝道旅行へ

1年半におよぶ安定した宣教の後、事態は急変し、パウロに反抗するユダヤ人たちが法廷で決着をつけようとする。会堂管理者が代わりに苦しめられたが、主の約束(10節)通り、パウロ自身は守られた。

その後、第二次伝道旅行を終結するべく、パウロは初代教会の中心地であるエルサレム教会に報告に行き、さらに出発点のアンテオケ教会に戻った。しかし、また第三次伝道旅行に出発する。

2.神のみこころなら

長い伝道旅行を終えたばかりなのだから、派遣教会に長くとどまれたはずだが、なぜパウロはすぐに再出発したのか?エペソで語った「神のみこころなら」(21節)がキーワード。

エペソには主の福音をもっと学びたいと望む人々がいる。他の地域にもおそらく同様に福音を待つ人々がいる。

神のみこころを考えるときに、パウロは再び行かなければと思ったのだろう。忙しくても、やらねばならないみこころの時がある。また、みこころに従う者は主の守りの中にもいる。(マタイ28:20)

大変に思えるが、実は最も幸いな道は、神のみこころに従う道なのである。


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2004年2月22日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:使徒の働き 18章1-11節
宣教題:「恐れないで語り続けよ」

1.主の励ましが与えられた理由

パウロはコリントに移動。当初は働きながら安息日に宣教したが、シラス、テモテと合流してからはフルタイムで宣教した。

にもかかわらずユダヤ人たちが反抗し、コリント人たちが信じるという皮肉な結果。心に痛みを感じたパウロを主は励まされた。主はやさしいお方なのである。

2.恐れないでいい理由

主は「わたしがあなたとともにいるのだ」と語られた。反抗されたのはパウロではなく主であった。良い結果をもたらすのも主であった。パウロは孤独ではなく、主がともに戦っておられた。主のために働くことは主の臨在をリアルに感じる体験なのである。

3.黙ってはいけない理由

人間の目には、人々が信じたり反抗したりという現象しか見えないが、主は「この町にはわたしの民がたくさんいる」と語られ、目には見えない霊的な現実を示される。

福音を待っている人々がいる。主はその人々を愛し救おうとされているのだ。


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2004年2月15日

メッセンジャー:高松和代伝道師
聖書箇所:マルコの福音2章12-17節
宣教題:「誰が救われるのか」

1.取税人レビの召し(13,14)

主はペテロたちを召された時のように湖のほとりを歩まれる。みもとに集まる人にみことばを語られるが、群衆は来ては去っていき、とどまる者がいない。だが、取税人レビは違うことに、主は気づかれ招かれる。レビも従う。それは彼が自分の罪深さを知り(ルカ18:3)、罪人を赦すキリストを待ち望んでいたから(マタイ21:28-32)。

2.パリサイ人の非難(15,16)

パリサイ派の律法学者は律法に熱心なばかりでなく、律法を守らない汚れた人には近づかない。汚れがうつることを嫌うから。まして取税人のような罪人と親しく食事をするのは言語道断。

3.主の来られた目的(17)

主はご自分をたましいを病んだ罪人のもとに来た医者と答えられる。当時は病院はなく医者が訪問するのが普通。病んだ罪人がいるからこそ、主は天から下られた。汚れから身を守ろうと、必死になっているパリサイ人は、他人も自分も癒す力はない。彼らも医者を必要としている。「招く」と言われるのは神の国に招くため。招きに答えた人は新しい人生を手に入れる。レビはマタイ(主の賜物の意)となり尊く用いられた。


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2004年2月8日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:使徒の働き 17章24-34節
宣教題:「悔い改めを期待する神」

1.取税人レビの召し(13,14)

主はペテロたちを召された時のように湖のほとりを歩まれる。みもとに集まる人にみことばを語られるが、群衆は来ては去っていき、とどまる者がいない。だが、取税人レビは違うことに、主は気づかれ招かれる。レビも従う。それは彼が自分の罪深さを知り(ルカ18:3)、罪人を赦すキリストを待ち望んでいたから(マタイ21:28-32)。

神についての無知 人間の技術で神の像を造り、神の住まいを作り、神に仕えるということは、天地の造り主に対しては全く無意味。ままごと遊びのようなもの。神ご自身のことばを聞かなければ、神については私たちは無知なのである。

2.パリサイ人の非難(15,16)

パリサイ派の律法学者は律法に熱心なばかりでなく、律法を守らない汚れた人には近づかない。汚れがうつることを嫌うから。まして取税人のような罪人と親しく食事をするのは言語道断。

神はご自分を求めさせる 神は人間にそれぞれの人生を与えられた。その目的は、生きている間に神を求めさせることだった。神は探り求める者のために、みことばを与えられた。神は人間から遠く離れておられない。

3.悔い改めを命じておられる

人間が一方的に神を探り求めた時代は主キリストによって終わった。主は救い主であり裁き主である。すべての人はいったん死んでもよみがえらされ、神の裁きを受けなくてはならない。主イエスの復活が、そのしるしである。神はすべての人が悔い改めることを忍耐深く待っておられる。(ペテロ・3:9)


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2004年2月1日

メッセンジャー:國分広士牧師
聖書箇所:使徒の働き 17章15-25節
宣教題:「心の憤り」

1.何に憤ったのか

パウロはアテネの町が偶像でいっぱいなので憤りを感じた。偶像に対する憤り。誤った宗教心への憤り。当時、世界で最も知的な町なのに、真の神への無知という皮肉な現実への憤り。

2.神は天地の主

パウロはアレオパゴスで語る機会を与えられた。彼の第一の主張は神は世界の造り主であり支配者だということである。神を造り主と考えるかどうかは、神観の基本的な問題で、偶像・多神教を生む汎神論との決定的な違いである。知的水準の高いアテネの人々に福音を伝えるためには根本的な思想の整理が必要だったのである。

3.人間の拝み方

汎神論的神観では、神は人間よりは偉大だが、全知全能ではないし、私たち一人一人を心にかけてもいない。そこで人間側が神の弱さを補って神の住まいを作ったり仕えたりして、自分をアピールする必要が出てくる。これが偶像崇拝である。しかし天地の主なら人間に仕えてもらう必要はない。いくら宗教的に熱心であったとしても、我々の勝手な思いで、神の求めていない拝み方をしていることはないだろうか?


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