聖書に関する基礎知識を簡単に説明しています。
|
2011/02/20 パウロの投獄 2011/02/06 ピリピ 2011/01/30 目から鱗 2010/11/21 主の祈り 2010/11/14 弟子と使徒 2010/10/31 預言者ヨナ 2010/10/24 預言者エレミヤ 2010/10/17 ダリヨス 2010/10/10 ネブカデネザルの夢の像 2010/09/19 外国人の祈り 2010/07/18 エポデ 2010/07/11 忠臣ダビデ 2010/07/04 サウル王 2010/06/06 ペリシテ人 2010/05/23 ペンテコステ 2010/03/07 アマレク 2010/02/21 ヨブ記 2010/02/14 パロ 2010/02/07 モーセ 2010/01/17 ソドム 2009/12/27 箴言 2009/12/06 使徒ヨハネ 2009/11/29 十字架 2009/11/22 くびき 2009/11/15 パウロの告別説教 2009/10/04 「サウロ」の別名「パウロ」 2009/09/13 ヘロデ王 2009/09/06 ペテロの説教に至る経緯 2009/08/30 ギリシャ語の「愛」 2009/08/23 ペテロのユニークさ 2009/08/09 天の御国のかぎ 2009/08/02 シモン・ペテロ 2009/07/26 カレブ 2009/07/19 アッシリヤとクシュ 2009/07/12 セラフィム 2009/07/05 イザヤの時代背景 2009/06/21 油を注ぐ 2009/06/14 ホレブ 2009/05/31 ペンテコステ 2009/05/24 バアルの預言者たちのならわし 2009/05/10 死者の生き返らせる記事 2009/05/03 主の預言者エリヤ 2009/04/26 主のたとえ話 2009/04/19 ダビデの歌と器楽演奏 2009/04/12 イースター(復活節) 2009/04/05 最長の章、最短の章 2009/03/29 幻、黙示、啓示 2009/03/22 「人の子」 2009/03/08 エポデ 2009/03/01 サムエル 2009/02/22 モーセ 2009/02/15 神の名「主」 2009/02/08 ささげものを持ってきた場所 2009/01/25 茫漠 2009/01/04 聖書は神のことば 2008/12/21 ダビデの子ヨセフ 2008/12/14 バビロン移住 2008/12/07 マタイ系図の省略部分 2008/11/30 聖書の系図 2008/11/23 洗礼式(バプテスマ) 2008/11/16 祈りの原動力としての聖書 2008/11/09 主の祈り 2008/11/02 手を置いて祝福する 2008/10/26 奇跡 2008/10/19 申命記 2008/10/05 いちじく桑 2008/09/21 召天 2008/09/14 ヨハネの黙示録 2008/09/07 ハデス・火の池(ゲヘナ) 2008/08/17 JECA信仰告第8条「教会」 2008/08/10 礼拝 2008/08/03 キリストのからだ 2008/07/27 伝道者の書 2008/07/20 ローマ人への手紙 2008/07/13 JECA信仰告第7条「救い 2008/07/06 罪 2008/06/29 パリサイ人・律法学者 2008/06/22 アブラム 2008/06/15 モーセ 2008/06/08 JECA信仰告白・第6条「聖霊」 2008/06/01 聖霊 2008/05/25 ピリポ・カイザリヤ 2008/05/18 福音 2008/05/11 ペンテコステ 2008/05/04 ヨハネの福音書 2008/04/27 山上の説教 2008/04/20 いけにえ 2008/04/13 善悪の知識 2008/04/06 人間観 2008/03/30 強調表現としての繰り返し 2008/03/16 預言者イザヤ 2008/03/09 地球環境 2008/03/02 長期間説・24時間説 2008/02/24 取税人 2008/02/17 三位一体 2008/02/10 無限 2008/02/03 汎神論と唯一神論 2008/01/27 反キリスト 2008/01/20 聖書批評学 2008/01/13 外典 2007/12/30 神の武具 2007/12/23 住民登録 2007/12/16 処女降誕 2007/11/25 小さな聖書 2007/11/18 禁酒禁煙 2007/10/28 会堂・会堂管理者 2007/10/21 ウィクリフ 2007/10/14 異本 2007/10/07 賜物 2007/09/23 詩篇 2007/09/16 召天 2007/09/09 飲酒 2007/09/02 御霊 2007/07/08 聖餐式(せいさんしき) 2007/05/27 ペンテコステ 2007/05/20 エペソ人への手紙 2007/05/06 強調表現としての繰り返し 2007/04/22 主の宣教命令 2007/04/08 イースター 2007/04/01 受難日夕拝 2007/03/25 家族の救い 2007/03/18 献身 2007/02/25 4倍にして返す 2007/02/18 祈り 2007/01/28 創世記 2007/01/21 クレテ 2007/01/14 長老・監督 2007/01/07 テトスへの手紙 2006/12/31 奉仕 2006/12/24 預言 2006/12/17 洗礼式(バプテスマ) 2006/12/10 待降日 2006/12/03 アドベント(待降節) 2006/11/19 十戒 2006/11/12 福音 2006/09/24 十字架 2006/09/17 召天 2006/09/10 敬老に関する聖書の教え 2006/08/20 ハレルヤ・アーメン 2006/08/13 聖書3「啓示の書」 2006/08/06 聖書2「66巻の聖書」 2006/07/30 聖書1「聖書のみ」 2006/07/23 伝道礼拝 2006/07/16 祈りの課題 2006/07/09 聖書通読 2006/07/02 日々のみことばと祈り 2006/06/25 あかし 2006/06/18 父の日 2006/06/11 会衆 2006/06/04 ペンテコステ 2006/05/28 報告 2006/05/21 起立・着席 2006/05/14 母の日 2006/05/07 会衆の祈り 2006/04/30 祝祷 2006/04/23 頌栄 2006/04/16 イースター 2006/04/09 受難日 2006/04/02 感謝の祈り 2006/03/26 献金 2006/03/19 宣教 2006/03/12 とりなしの祈り 2006/03/05 交読文 2006/02/26 聖書朗読 2006/02/19 信仰告白 2006/02/12 主の祈り 2006/02/05 開会祈祷 2006/01/29 賛美 2006/01/22 前奏 2006/01/15 まねきのことば 2006/01/08 主日礼拝 2006/01/01 聖餐式 |
パウロの投獄 かつて主の弟子たちを投獄したパウロは、主の使徒になってからは反対にキリストを信じる故に投獄された。特にエルサレムの神殿を汚したという誤解から始まった投獄では、主イエスを神のキリストと認めるかどうかという純粋に信仰的な議論へと進み、カイザリヤで2年以上獄中に置かれ、さらにローマに護送された。 ピリピ マケドニア地域を代表する町。 パウロが伝道旅行中、マケドニア人の幻を見て神の導きを悟り、海を渡ったマケドニアで最初に伝道した町。 ルデヤという婦人が熱心な信者となったが、占いの霊につかれた女の霊を追い出したことから逮捕され、その牢獄の看守が救われるという出来事へとつながった。(使16:9以下) 目から鱗 サウロの目から、「うろこのような物」が落ちて、再び見えるようになった出来事(使徒の働き9章18節)から、「自分の誤った考えを捨てて正しいことを悟る」という意味で使われることわざ。
主の祈り 礼拝で用いている「主の祈り」は、マタイの福音書6章9-13節です。これは「山上の説教」と呼ばれる主イエスの最も有名な説教の一部分です。ルカよりも祈りの内容が多く、祈りの前後のエピソードも異なります。教えの導入のエピソードは、人に聞かせるのでないので、みせかけの熱心さではなく信じて祈ることが語られています。祈りに続くエピソードは、「赦し」について教えられています。おそらく別の状況で教えられた祈りなのでしょう。 弟子と使徒 主イエスを信じる弟子はたくさんいました。 使徒1:15にはペンテコステ前なのに120名ほどの弟子が集まっているし、Tコリント15:6には、復活の主イエスに500人以上の兄弟が同時に現れたと記されています。 使徒は弟子たちの中から、主が特に選ばれた人々です。 主が選んだ12のうちユダ以外の11人と、ユダの代わりに選ばれたマッテヤ(使1:26)と、主が天からの光で照らされたパウロ(使9:1-22)の計13名が使徒です。 預言者エレミヤ ユダ王国が滅亡する時代に活動した預言者。 宗教改革を断行したヨシヤ王の時代から、主に従わなかった故に国が滅びることを預言した。 人々は捕囚となってバビロンに連れて行かれるが、その地で幸せになれるから、この地にとどまることに執着せず、へりくだって主の罰を受けるようにと民に語っていた。 その預言内容の故に、為政者の政治的基盤をおびやかす存在とみなされ、迫害された。 ダリヨス バビロニアに代わり、メソポタミヤを支配するメディヤ・ペルシャの王。 この人物については、聖書以外の歴史資料から確認することができていないので、その実在性が様々に議論されてきた。しかし、旧約聖書の人名や地名などの歴史性の確認は19世紀からの考古学の発達によってなされてきたのであり、まだわかっていないことはたくさんあるので、今後の研究を期待するべきであろう。 ネブカデネザルの夢の像 金の頭はネブカデネザルの支配するバビロン帝国であるが、それ以降を歴史に当てはめて考えると、銀の胸と両腕はメディヤ・ペルシャの連合国。青銅の腹とももとはギリシャのアレキサンダー大王。鉄のすねはローマ帝国。鉄と粘土が混じった足は、ローマ帝国が分裂し他の勢力と混じりながら、その名残りが今に至るまで続いていることを示している。 外国人の祈り 聖書は最初から全人類のために書かれている。最初の人アダムも、箱船で滅びを逃れたノアも、全人類の祖先である。 アブラハム以後、イスラエルが救い主の家系となるが、血縁よりも「信仰による民」という理解は新約旧約ともに聖書を貫いている。造り主にとっては血縁の差など問題ではない。同じ信仰なら、民族が異なっても同じ神の民なのだ。 外国人の祈りには、真の神がどなたなのかを明らかに示す意味がある。 エポデ 祭司の着衣で胸あてにウリムを入れる。ウリムは神のみこころを伺うくじ。一つの質問につき、@イエス Aノー B待て の三通りの回答が用意されている。ダビデが家族を救出するためにエポデで神のみこころを伺った(7-8節)際には、質問は少なくとも三回なされた。(1)追うべきか?→追え (2)追いつけるか→必ず追いつける (3)救えるか?→必ず救える この回答が与えられる確率は27分の1である。 忠臣ダビデ ダビデは、サウル王の心を慰める琴の奏者としてサウル王に仕え始めた。その後、ペリシテ人との戦いの際、代表戦士として敵のゴリアテという巨人戦士に打ち勝ったことで、サウルの重臣(千人隊長)となり、さらにサウル王の娘の婿ともなった。ダビデは非常な忠臣で、サウル王のねたみを買いながら忠誠を尽くし、命を狙われ逃亡しても、背後でイスラエルを助ける活動もした。 サウル王 イスラエルの初代王。王をたてよというイスラエル人の求めに応じて、預言者サムエルが王に任命する油を注いだ。最初は主に忠実な王と思われたが、ペリシテ人との戦いではサムエルの到着を待てずに自分で勝手にいけにえをささげてサムエルに叱責された。また、アマレク人との戦いでは、全て聖絶せよと命じられていたのに、良い家畜を惜しんで残し、決定的に主に従わない失格者とされた。 ペリシテ人 カナンの地の地中海沿岸に、海を渡って移住してきた好戦的民族。「パレスチナ」という名称の語源。文化が高く武力にも優れ、イスラエルは常に抑圧された。 主の箱 神がモーセに与えた十戒の書かれた石の板が納められた箱。ペリシテ人との戦争の折に担ぎ出され、敗戦によって奪われたが、その後、奪ったペリシテ人に災いが続いたのでイスラエルに戻された。 ペンテコステ ギリシャ語で「50日目の祭り」の意味。使徒2:1の「五旬節」のこと。大麦の初穂の束をささげる日から50日目に行われた祭り(レビ23:15以下参照)。 この日に聖霊が主イエスの弟子たちに下り、弟子たちは力を受けて福音を伝え、その宣教で一気に増えた弟子たちによって「初代教会」が誕生したのである。そこでこの日は「聖霊降臨日」として、主の降誕を祝う「クリスマス」、主の復活を祝う「復活節」と並び、キリスト教会で最も重んじられる記念日となっている。 アマレク エサウの子孫の民族。パレスチナからシナイ半島までの広い山岳地域に村落や行動の記録がある。 イスラエルに対しては好戦的で、戦いの記録はほかにも民数記、士師記、サムエル記、歴代誌にある。特にこの出エジプトの記事と、サウル王に対して、預言者サムエルがアマレクの聖絶を命じた記事から、単に軍事的な脅威というより、道徳的・信仰的な問題を持つ民族であったことが推測される。 ヨブ記 ここまでのストーリー 裕福で家庭も恵まれ、信仰深く正しく生きるヨブという人物がいた。あるとき神とサタンがヨブについて会話をする。サタンはヨブは恵まれているから神を敬っているが、悲惨な目に遭えば神をのろうだろうと言う。そこで神はサタンがヨブを試すことを許し、ヨブは財産も家族も健康も失う。いたわりにきた友人たちも悲劇の原因はヨブ自身の罪にあると責め、反論するヨブと激しい議論になった。 パロ エジプトの王。「ファラオ」と音訳されることも多い。 エジプトは強大な国家であり、その権力の象徴がパロ。単なる政治家ではなく、国家の宗教上の最高指導者でもある。エジプトにはたくさんの偶像の神々があり、人々の生活は偶像崇拝と密接につながっていた。エジプトの奴隷であることは、単に生活や行動の自由がないという問題だけでなく、偶像を拒み真の神のみを信じるという、信仰の自由がないということこそ、より大きな問題であった。 モーセ 映画「十戒」で有名な人物。聖書の最初の5つの書物(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を書いた。これらは「モーセ五書」と呼ばれ、聖書の基本をなす部分である。モーセはエジプトの王女の養子として育ったので、文章を書く教育も受けていたことと思われる。彼はイスラエル人を助けようとしてエジプト人を殺してしまい、王に追われて国外に逃亡したが、神の命でイスラエルを導く指導者となった。 ソドム 現在の死海の南側部分はかつては陸地であった。そこにはソドム、ゴモラという町々があった。その一帯は世界で最も低い低地であり、湿潤なために豊かな地であった。エジプトとメソポタミヤを結ぶ交易ルートにあることからも、ソドムは経済的には繁栄していたが、道徳的には著しく退廃していた。退廃は宗教儀式に明確に現れており、同性愛や獣姦などの性的倒錯、自分のこどもを犠牲にする人権侵害などが平然と行われていた。 箴言 ヘブル語の表題は「ミシュレー」。「ことわざ」という意味。 主な著者はソロモン。彼は3,000の箴言と1,500の歌を作った(一列王4:32)ので、その中の一部分が聖書「箴言」に記録されたのだろう。著者名は他にも2名掲げられているが(30:1,31:1)、どのような人物かは不明。ソロモン作についても1-9章のまとまりと、10章-24章の部分、25章-29章の三つのまとまりがあり、25:1からヒゼキヤ以後に編纂されたことがわかる。 使徒ヨハネ イエスさまの12使徒の一人。ヨハネの福音書、ヨハネの手紙TUV、ヨハネの黙示録の著者。 12使徒の中でも、ペテロに次ぐ中心的な存在。家は裕福であったようで、主の母マリヤをひきとった。彼の母サロメとマリヤとは姉妹であったとも解釈できる記述もある。12使徒中最も長生きし、他の新約聖書の書物がほとんど書き終えてから彼の執筆が始まったようである。用いているギリシャ語の文体は優しいが、思想は深く、熟読が必要。 十字架 キリスト教のシンボルマーク。 もともとはローマ時代の死刑の道具であり、史上最も残酷な死刑の方法と言われる。主イエスが罪の身代わりとして死なれたことを示すシンボル。 カトリックの十字架にはイエス像もついており受難を強調しているが、主はすでに復活され罪に勝利したことを示すためプロテスタントではイエス像はつけない。 また正教の十字架は横棒が一本多いが、それは十字架刑を長びかせるための足の添え木を表している。 くびき 二頭の牛、または馬を一体として用いるための農工具。平行に並ぶ二頭の家畜の首を連結するようにかける。 初めてくびきをかけられた家畜は嫌がるが、次第に慣れ、やがて二頭が完全に歩調を合わせて進むようになり、曲がるときには内側の一頭が歩みを緩めるなど、コンビネーションもとれるようになる。こうして一くびきに合体すると、二頭分の力を発揮でき、しかも前進するときには左右にぶれずにまっすぐ進むという利点がある。 パウロの告別説教 使徒20章は「パウロの告別説教」と言われる有名な箇所。 パウロが特に力をいれて宣教したエペソ教会の指導者たちを招き、最後に伝えておきたい思いを語っている。心情的にも涙を誘い、内容的にもパウロの思想が凝縮されており、非常に深い。その思想の中心はキリストの福音であり、次に、その福音を伝えるために存在しているという自己理解、さらにそれが反映された彼のライフスタイルが語られている。 「サウロ」の別名「パウロ」 ユダヤ名がサウロ。ローマ市民名が「パウロ」。 パウロは生まれながらローマ市民権を持っていたユダヤ人なので、二つの名があった。 使徒の働きの中で、13:9までは「サウロ」と呼ばれていたのが、この節で別名「パウロ」が紹介され、以降はパウロの名が使われる。13章の伝道旅行からパウロに与えられた使命が異邦人宣教であることが明確になるが、おそらく異邦人に接するときには、ローマ名のほうが都合が良かったので、あえて「パウロ」と自称したのだろう。 ヘロデ王 新約聖書にはヘロデという名がしばしば登場するが、実は同じ家系の5人の人物を指している。 (1)幼子イエスを殺そうとしたヘロデ大王。 (2)ヘロデ・ピリポ。ヘロデ大王の息子で、妻のヘロデヤを兄弟アンテパスに取られた。 (3)ヘロデ・アンテパス。ヘロデ大王の息子。バプテスマのヨハネを殺し、主イエスを侮辱した。 (4)ヘロデ・アグリッパ1世。ヘロデ大王の孫。使徒12章のヘロデ。ヤコブを殺しペテロをも殺そうとしたが、虫にかまれて死んだ。 (5)ヘロデ・アグリッパ2世。1世の息子。使25−26章の「アグリッパ王」。 ペテロの説教に至る経緯 復活した主イエスは40日後に天に上げられ見えなくなった(使徒1:9)。弟子たちは主イエスがおられなくなっても集まって祈り、また自殺したユダの代わりの使徒を選ぶなど、教会の組織固めをした。復活から50日後の五旬節(ペンテコステ)の日、弟子たちが一箇所に集まっていたときに聖霊が下り、大きな物音がし、弟子たちは他国のことばで福音を語りだした。物音を聞いて集まった人々が、弟子たちの有様を驚いたり批判したりするのを聞いたペテロが、人々にこの出来事の意味を語り始めたのがこの説教(使徒2:14-36)である。 ギリシャ語の「愛」 新約聖書の原典はギリシャ語で書かれた(旧約はヘブル語)。 ギリシャ語では愛を表すことばが三つある。第一は「エロース」で、価値を認めるという愛。第二は「フィレオー」で友情。第三は「アガペー」で神の愛。 新改訳聖書の欄外注には主とペテロの「愛」がどのことばを用いているかが記されており、興味深い。主の第一第二の問いは「アガペー」で尋ね、ペテロは一貫して「フィレオー」で答える。そして主の第三の問いは「フィレオー」で尋ねている。これはペテロが謙虚に答えたことと、主が最期はペテロの立場で聞かれたという哀れみだと解される。 ペテロのユニークさ ペテロは人間味あふれる人物である。普通なら、水に飛び込む時には着物をぬぐだろが、彼は主のところに泳いで行く際に、裸だったので着物を着て水に飛び込んだ。彼がイエス様のところに早く行きたかった思いと、裸では失礼と思った心情が伝わる逸話だが、別に模範的行動と言うことではない。ヨハネがこの光景をなつかしく思い出し、「ペテロっておもしろい奴だよな。」と、くすくす笑いながら書いていたように思える。 天の御国のかぎ マタイ16:19に出てくる「天の御国のかぎ」ということばの解釈は、プロテスタントとカトリックで見解の分かれる部分。カトリックはこの「かぎ」は人の救いを決定する権威であり、ペテロに与えられたその権威は歴代のローマ法王に受け継がれていると解釈する。カトリック教会の正当性を主張する基礎となる聖句である。一方我々プロテスタントはこれを福音と理解し、その福音を伝える使命は全ての信徒に与えられていると考える。 シモン・ペテロ 主の12弟子のひとり。初代キリスト教会の中心的存在。 ペテロの手紙の著者であり、マルコの福音書の実質的な著者(ペテロの教えを、マルコが記述した)であると考えられている。福音書と使徒の働きにおいて、最もよく名前の出てくる弟子であり、多弁で行動的であった。 反面、失敗も多く記述され、人間味豊かで魅力的な人物である。多くの人が、自分はペテロのようだと感じ、彼が主に従う様を自分に掛け合わせつつ聖書を読んでいる。 カレブ モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、神が与えると約束してくださったカナンの地の近くまで来たときに、12人の斥候を派遣し、カナンの地の情勢を探らせた。カレブはその一員であった。12人中、10人は、カナンの先住民が強すぎるので、攻略は無理と言ったが、カレブとヨシュアの二人だけが、ぜひ行こうと進言した。民の不信仰で40年延期され、同世代が死に絶えたが、カレブとヨシュアだけは生き残っていた。 アッシリヤとクシュ アッシリヤ 古代メソポタミヤの王国のひとつ。長期間存在したが、最後の150年間(BC8世紀から7世紀にかけて)は、世界帝国となった。 クシュ 今のエチオピヤ。アッシリヤはエジプト攻略を狙って、その準備としてイスラエルも攻略されたが、この動きに、エジプトの背後の国であるクシュも黙っておられず、迎え撃つ備えをしていたようだ。 セラフィム イザヤ6章のみに登場する神の御使い。神のそばで神に直接仕えている。顔と手と足があり、6つの翼を持ち、互いに主への賛美の声を交わしていた。ケルビムも有翼の御使いなので類似するが、別の存在であると思われる。黙示録4章に登場する四つの生き物も6つの翼を持つので類似するが、同一であるかどうかは不明。神には多数の御使いが仕えており、私たちはその一部しか知らされていないのかもしれない。セラフィム イザヤ6章のみに登場する神の御使い。神のそばで神に直接仕えている。顔と手と足があり、6つの翼を持ち、互いに主への賛美の声を交わしていた。ケルビムも有翼の御使いなので類似するが、別の存在であると思われる。黙示録4章に登場する四つの生き物も6つの翼を持つので類似するが、同一であるかどうかは不明。神には多数の御使いが仕えており、私たちはその一部しか知らされていないのかもしれない。 イザヤの時代背景 イザヤは4世代の王の治世に活動していた。50-60年ぐらいの長期間であるので、青年時代から老境の晩年まで活動していたことになる。50年の時間が経過すれば、本人の歩みも、周囲の社会状況も様々に変化する。ユダ王国も経済や政治・軍事的な繁栄と衰退の時期を何度も経験する。そんな中、兄弟国であるが信仰的には偶像崇拝に走り主を捨てたイスラエル王国が滅亡した。激変が起きるたびに、イザヤの宣教は注目されたのである。 油を注ぐ イスラエルで油といえばオリーブ油。オリーブは乾燥地に適するので、ぶどう酒とともにパレスチナの主な農産物であった。油を注ぐのは、聖別して主に献げるという意味で行われた。祭壇や神殿の器具などの物にも注がれた。人の頭に油を注ぐのは任職の儀式として行われた。王、祭司、預言者という、特に主が選ぶ人に注がれた。油注がれた者のことをヘブル語(旧約聖書)では「メシヤ」と言う。そしてメシヤはギリシャ語(新約聖書)では「キリスト」と言うのである。 ホレブ ホレブはモーセが神から召命と律法をいただいた山(出3:1)であり、「シナイ山」と同じ山であると思われている。シナイ半島の先端近くにあり、エリヤが逃げていたベエル・シェバからは、450キロぐらいの道のりになる。エリヤは40日40夜かけて移動しているが、ホレブのことばの意味は「乾燥した場所」であり、水が乏しいので、旅は容易ではなかったのだろう。この山で主がモーセにみことばを与えてくださったゆえに、エリヤも主のことばを求めてホレブに行ったと思われる。 ペンテコステ ギリシャ語で「50日目の祭り」の意味。使徒2:1の「五旬節」のこと。大麦の初穂の束をささげる日から50日目に行われた祭り(レビ23:15以下参照)。 この日に聖霊が主イエスの弟子たちに下り、弟子たちは力を受けて福音を伝え、その宣教で一気に増えた弟子たちによって「初代教会」が誕生したのである。そこでこの日は「聖霊降臨日」として、主の降誕を祝う「クリスマス」、主の復活を祝う「復活節」と並び、キリスト教会で最も重んじられる記念日となっている。 バアルの預言者たちのならわし 彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。(第一列王記18:28) カナンの偶像崇拝では、祈りの儀式としてわざと自らの肉体を傷つけることが行われた。これは祈りの熱心さを示す行為であった。さらにエスカレートすると、自分のこどもを殺していけにえにすることも行われた。また、彼らの神殿では、豊穣を求める儀式として神殿娼婦・神殿男娼との性行為も行われた。これらの行為に表れているのは、自己流の自分勝手な信仰の恐ろしさである。それが蔓延すれば人類は滅亡するので、主はしばしば警告としての裁きを行われた。 死者の生き返らせる記事 聖書中には死者を生き返らせるという記事がいくつかある。 エリヤの後継者である預言者エリシャも、世話になった婦人の子を生き返らせた(第二列王記4章)。 主イエスはナインのやもめの息子(ルカ7:14-15)、ヤイロの娘(マルコ5:41-42)、ラザロ(ヨハネ11:43-44)の三人を生き返らせた。 ペテロはタビタを(使徒9:36-40)、 パウロはユテコを生き返らせた(使徒20:9-12)。 しかしそれらはいずれも驚きの経験であり、神が命を造り支配しておられることを教えられる記事である。 主の預言者エリヤ 旧約聖書書の人物で最も偉大な人の一人と言えるのがエリヤ。 ルカ9:28-31では、イエスさまが山で姿が変わり、モーセとエリヤとともに十字架の最後について語り合う場面があります。モーセと並んでエリヤは旧約聖書を代表する人物と言うことができるでしょう。 彼は偶像崇拝の盛んな時代にあって、聖霊に満たされ、偶像の預言者たちと対決して偉大な奇跡の数々をなし、主が生きておられることを身をもって証ししました。 主のたとえ話 イエスさまの教えの特長として、たとえ話が多いということがある。これは旧約時代からの特長とも言え、聖書には多くの印象的なたとえ話が記載されている。 たとえ話は人々の興味を引き、記憶にもよく残るので、効果的な話法として古くから用いられてきたのである。特に群集に向かって語るとき、主はたとえ話をされた。群集の中にはまだ理解力の乏しいこどももいれば、耳が少し遠くなった年よりもいる。その全てに届くようにと、わかりやすく語られたのである。 ダビデの歌と器楽演奏 ダビデの詩篇は歌う目的で作られている。聖書が書かれた時代には楽譜がなかったのでメロディーは伝えられないが、ダビデ自身が立琴の名手だったので、豊かなメロディーで歌われたに違いない。さらにダビデが民を組織して賛美や演奏をしている様子が歴代誌第一15章16節以下に記されている。「ダビデはレビ人…を十弦の琴、立琴、シンバルなどの楽器を使う歌うたいとして立て、喜びの声をあげて歌わせるよう命じた。」 イースター(復活節) 主の復活の記念日。 春分後の最初の満月後の最初の日曜日なので、3月末から4月半ばの間で毎年日付が異なる。 日本においてはクリスマスがよく知られ盛大に祝われるが、キリスト教における意義としては、私たちの罪を背負って死なれた主が、死を滅ぼし救いを成就した勝利を祝うので、クリスマス以上に意義深い記念日である。ただし「イースター」の語源は異教的な春の女神の名前で、古くからの春分の祭りがキリスト教化されたという起源があることも覚えておこう。 最長の章、最短の章 聖書の章で最長は詩篇119篇。新改訳聖書では10ページに及び節で言うと176節もある。単に長いのだけではなく技巧的に非常に高度な詩。全体は8節づつ22個のまとまりに構成されているが、最初のまとまりは各節が「アレフ」という(英語のAのような)へブル語の最初の文字で始まり、次のまとまりは各節がベイトという(英語のBのような)文字で始まるというように、へブル語全22個のアルファベット歌となっている。 反対に最短は詩篇117篇で、わずか2節しかない。 幻、黙示、啓示 サムエル3:1では「幻」ということばがあるが、3:15ではサムエルが聞いた主のことばについて「黙示」と呼んでいる。他にも似たことばとして「啓示」ということばがある。これらのうち、「啓示」が最も一般的な意味で神の意思が語られるというニュアンスで用いられる。「黙示」は特に将来のさばきについての啓示というケースに使われ、頻度は少ない。「幻」は啓示の一つの手段である。 「人の子」 イエス様はご自分をよく「人の子」と呼んだ。 旧約ダニエル7:13には「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。」という箇所があるので、「人の子」という言い方には単なる人間性だけでなく「神のみ子」という意味が含まれることは確か。 新約マルコ2:28ではイエスさま自身のことばとして「人の子は安息日にも主です」とあり、イエス様がご自分を救い主=キリストであると意識して用いられた表現だとわかる。 エポデ 祭司が主の奉仕に着用する衣服。 大祭司アロンの着用するエポデは「栄光と美を表す聖なる装束」であり、「金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、巧みなわざでエポデを作らせる」(出28:6)にあるように豪華な衣装だった。少年サムエルの着用したのは「亜麻布のエポデ」とあるので、祭司を補助する者用の簡略化されたものだったかもしれないが、同じ亜麻布のエポデを着た祭司エブヤタルは神の御旨を求めるときにそのエポデを用いた(Tサム23:9-12)。 サムエル 紀元前11世紀。旧約聖書の『サムエル記』に登場する預言者であり、最後の士師でもある。名前の意味は「彼の名は神」。サムエルは政治的民族指導者(士師)としても活躍したが、士師は王と異なり、官僚組織や軍隊組織を持たなかったため、サムエルのような強い指導者が老いると国が不安定になる。そのため、民は王政を望んだ。サムエルはサウルを初めての王としてたて、後にサウルが神の命令にそむいたので、密かにダビデに油を注ぎ、次代の王を預言した。 モーセ イスラエルの指導者。聖書の最初の五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)の著者。 彼が傑出した人物であることは申命記34:10に 「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」と記されている。後の人物が王・祭司・預言者のいずれかの使命を負うのと比べると、モーセはその全ての使命を果たしていたと言える。旧約の人物は主イエスの姿を預言的に現す、予型としての存在であった。 神の名「主」 太文字で主と書かれている文字は、ヘブル語ではYHWHと書く。ヘブル語は、母音のない子音だけのアルファベットなので、YHWHにどういう母音を当てるかで読み方が異なる。 ユダヤ人は主の名をみだりにとなえてはいけないという意識でわざと「アドナイ(主人)」と読み続けたため、YHWHという単語の正確な読み方は伝承されなかった。 一時「エホバ」と読むことが一般的になったが、その後の学者の研究で「ヤーウェ」(YaHaWHe)という読み方のほうがいいと言われている。 ささげものを持ってきた場所 創世記3:23-24から推測すると、エデンの園を追われたアダムとエバは、おそらくエデンに近接する地域に住んでいた。エデンの東端にはエデンを守るケルビムと炎の剣があった。直接神と会うことはできなくなったものの、エデンの入り口まで来れば神の声を聞くことができる。神の存在を実感できる場が残されていたのだ。カインとアベルのささげものは、そこに持ってきたのだと思われる。しかしノアの洪水でその場所も失われた。 茫漠 新改訳聖書第三版における代表的な変更箇所のひとつ。二版では「形がなく」。新共同訳聖書で「混沌」と訳されたことに憂慮した聖書学者が、より適切な訳語として選んだのが茫漠。 めったに使われないことばだが、広辞苑には「広くて、とりとめのないさま。ぼうっとしてはっきりしないさま。」とある。「混沌」だと無秩序というイメージが強く、神の創造がいきあたりばったりのような印象がある。「茫漠」のほうが、まだよく見えていない計画が、しだいにはっきり見えてくるというイメージに近い。 聖書は神のことば 聖書は単なる書物ではなく、神のことばです。通常の文書なら、書き手は読者がどんな思いで読むのかなどわかりません。しかし、神はいつでも私たちを見つめておられますので、今、まさに神のことばを聞く思いで私たちは聖書を読むのです。神が読むことを期待しておられるのに、それでも読まないということは、神のことばに耳をふさぐことです。遊びに夢中なこどもが親のことばを聞き流すようなもので、重要なことを聞き逃しているかもしれません。今年は毎日聖書を読みましょう。 ダビデの子ヨセフ 聖書で「子」と言うことばの意味は広い。直接の子だけでなく、孫も子孫も「子」である。王が家臣や民を「わが子」と言う場合もある。師弟関係にも使われる。それは深い結びつきと受け継いでいるものがあることを表す。 しかし、「○○の子」と言う場合は、その意味が限定される。「ダビデの子」ならば、このときはダビデより1000年も後代なので、ダビデの子孫を意味する。マタイはそれを系図を確かめることによって、証明したのである。 バビロン移住 バビロンの王ネブカデネザルの時代に、エルサレムは滅ぼされた。バビロンは征服した国々に民族紛争が起きないように、強制移住させる政策をとっていた。ユダも国のおもだった人々はバビロンに強制移住させられ、貧民だけが残った。しかし同時にバビロンは征服した人々を重用したので、ダニエルとその友人たちや、ネヘミヤ、エステルとそのおじモルデカイのように、移住後に活躍するユダヤ人も多くいた。またこの時代に会堂礼拝という礼拝形態が生み出されたことも意義深い。 マタイ系図の省略部分 系図は学問的に精密に書くとはかぎらず、意図的に省略が行われることがある。 歴代誌第二36章によると、ヨシヤの子エホアハズが父の戦死後王となるが、戦勝国エジプトは三ヶ月後に彼を廃位させ、兄弟のエホヤキムを即位させた。11年後にバビロンに負けて捕虜となり、彼の子エホヤキンが即位したが三ヶ月後に彼も捕虜となった。バビロンはエホヤキンのおじゼデキヤを王に即位させたが11年後にバビロンに背いたため、王もエルサレムも滅ぼされ、王国は滅亡した。 聖書の系図 聖書には多くの系図が書かれている。創世記5章にはアダムからノアまでの系図。10章にはノアの子孫の系図。11章にはノアからアブラハムまでの系図。このような大きな系図のほか、もっと細かな系図もたくさんある。これは聖書が歴史を重視していることを示している。歴史は事実の積み重ねである。神は正しい方であり、何かおおごとを起こして自堕落な過去を帳消しにするようなやり方でなく、事実を積み重ねてみわざをなさるのである。 洗礼式(バプテスマ) キリストを信じるしるしとして受ける礼典。 「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。(ペテロ第一3:21)」とあるように、「救い」自体は信仰で与えられるが、主に従うことを公に誓う意義は大きい。 形式としては全身を水につける「全身礼」と水を頭にかける「滴礼」がある。当教会はどちらも正式なものと認めるが、通常は全身礼を施す。 祈りの原動力としての聖書 祈りと聖書は切り離せない。祈りが神への語りかけなら、聖書は神からの語りかけ。交互に繰り返すことで神との会話になる。祈りが貧しいと嘆くなら、聖書を読もう。特に祈りのことばそのものが書かれている詩篇は、祈りの模範を教えられ励まされている。その他、とりなしの祈りの例としては、アブラハムの祈り(創18章)、モーセの祈り(出32:32)。悔い改めの祈りの例としては詩篇51篇。主に委ねる祈りとしてはヨナ2章、ゲッセマネの祈り(ルカ22:42)など、多数ある。 主の祈り 通常、主の祈りと呼ばれるのはマタイの福音書6:9-13であるが、ルカ11:2-4にも、マタイより簡潔な主の祈りが記されている。マタイがよりことばが整っているので、礼拝ではこちらを用いている。 共通の資料をそれぞれ編集したのか、別々の二つの資料なのかは、特定はできないが、いずれにしても、「主の祈り」にはイエス様の祈りの教えが明確に示されており、私たちの祈りの模範である。どう祈っていいのかわからないときにも、「主の祈り」を祈るなら、実は最善の祈りができる。 手を置いて祝福する 旧新約聖書を通じて、手を置いて祈るのは祝福の祈りによく見られる伝統的な方法であった。 イスラエルの指導者モーセは後継者のヨシュアの頭にまず手を置き、その後に民の前で指導者に任命するよう、神に命じられた。(民27:18-19) 使徒たちも7人の執事が選ばれたとき、彼らの上に手を置いた。(使徒6:6) テモテは長老たちの按手(主の働きに任じるために手を置いて祈る儀礼)を受けたときに、聖霊の賜物が与えられた。(Tテモテ4:14) 奇跡 聖書には数多くの奇跡が記されている。奇跡は神のみ力を私たちが知るために、あえて人間に示された神の力の表れである。 近代の合理主義者は聖書を他の神話と同列に考え、奇跡は事実ではなく、神を権威づけるための創作や誇張だと断定した。しかしそれは「奇跡はない」という前提に立っているからであり、自分の考えを優先する恣意的な解釈である。先入観を捨てて聖書を読むならば、奇跡に神の偉大さと愛の深さが現されている事を知るはずである。 申命記 聖書の第五の書で、著者はモーセ。 約束の地(カナン)に入る直前のイスラエルの民に、モーセが語ったことばの収録。聖書のみことばに親しむことを強調している。 彼(王)がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行うことを学ぶためである。(17:18-19) いちじく桑 いちじく桑は天井や棺桶などの木材を取るために栽培されてきた。しかしそのままにすると根元がねじれ枝が多く出るため、背が低いザアカイでも登ることが出来たのだろう。 召天 「昇天」と書くなら、単に天に昇るという意味になる。 「召天」は、神のみもとへと召していただくという意味であり、キリストを信じて罪を赦された人が、永遠の住まいである天に入れていただくことを意味している。 「昇天」なら、キリストを信じようと信じまいと誰もが死後に神の裁きを受けることを意識させられるので、地上を去る悲しみのほうが大きい。 しかし「召天」は、地上よりすばらしい天に行く喜びがあるので、別離の悲しみは慰められる。キリストのあがないを受け入れ、天に召していただく特権を得よう。 ハデス・火の池(ゲヘナ) 新改訳聖書あとがきに記されているように、ハデスは「死者が終末のさばきを待つ間の中間状態で置かれる所」。 聖書の教えでは、死者はただちに裁かれるのではなく、一旦中間状態にとどめられ、世の終わりに、全ての人間がもう一度生き返らされ、神の裁きを受ける。その裁きで罪が赦され新天新地に入れていただける者と、罪の裁きとして火の池に落とされる者とに分けられる。火の池は「ゲヘナ」とも呼ばれ、「神の究極のさばきにより、罪人が入れられる苦しみの場所」。 JECA信仰告第8条「教会」 「教会は、キリストをかしらとするからだであり、みことばの宣教により、聖霊によって新生した者の集まりである。教会は、神のみこころに従い、神を礼拝し、聖書を学び、バプテスマと聖餐の礼典を守り、福音を宣教し、主のしもべとして互いに仕え、福音のために共に戦い、愛のわざに励み、主の再臨を待ち望む。」 礼拝 礼拝は宗教の最も中心的な行為。誰をどう礼拝するかで色々な宗教に分かれていると言うことができる。 私たちが礼拝するのは聖書に示されたこの世界と私たちを造られた唯一の神であり、どう礼拝するのかというと、聖書に記されている通り、神に対する罪を悔い改め、救い主キリストの身代わりの死を信じる告白をし、神に聞き従うために聖書を学び、日々具体的な導きを求めて祈る。それは日曜だけの行為ではなく、生活の全領域に及ぶ生き方の変革である。 キリストのからだ 新約聖書でこのことばは9つの節で11回使われている。[ローマ 7:4・1コリ6:15(2回), 10:16, 12:27・エペソ1:23, 4:12, 5:30・コロサイ1:24(2回)・ヘブル10:10] そのうち8つの節はパウロ書簡なので、パウロが好んで用いた表現のようである。 この表現の意味する内容は三つあり、 @キリストの肉体のからだ A十字架による贖い B教会 の三つである。 ※聖書のことばを検索するホームページがあります。 伝道者の書 著者は断定はできないが、おそらくソロモン王と思われる。 本書中で作者は自分を「伝道者」と呼ぶ。このことばは旧約聖書が書かれたへブル語で「コーヘレト」と読み、「集会を招集する者」とか「集会で語る者」といった職務を表す語と思われる。(新共同訳聖書では書名を「コヘレトの言葉」としている。) ローマ人への手紙 著者は使徒パウロ。紀元56-57年頃の作。 ローマは帝国の首都で、「すべての道はローマに通じる」と言われた国際都市だった。4万人を超えるユダヤ人も住んでいたと言われ、家の教会のような小規模のクリスチャンのグループがいくつも形成されていたようである。世界中の宗教や思想も入り混じる社会に影響される人々は、自分たちの信じるキリスト教信仰を体系的に理解する必要に迫られており、その必要に応える目的で書かれた。 JECA信仰告第7条「救い 救いは、キリストの身代わりの死を信じる者に与えられる神の恵みの賜物である。罪が赦され、義と認められた者は、滅びることなく、永遠のいのちを与えられる。 全9条のJECA信仰告白の中でもこの7条は特に大切な救いについての告白である。一般に救いと言うと、生命や生活上の困難や、精神的圧迫からの開放と言うイメージがあるが、聖書の救いは罪の刑罰である地獄の滅びからの赦しと、赦された者に与えられる永遠のいのちである。 罪 聖書で言う罪は、人間の決めたルールである法をやぶるかどうかとは違う面がある。法の場合は、社会秩序の維持が目的であり、裁くのも人間自身であるため、他の人に影響を与える行動やことばだけが問題となる。しかし、聖書の言う罪は神の前における罪である。神は心の奥底まで見られるので、ことばや行動に出したことも、心の中で思っているだけのことも、両方とも問題とされる。しかも神は聖い方なので、小さな罪であっても心底嫌うのである。 パリサイ人・律法学者 パリサイ人 旧約聖書の教えを忠実に守ろうとして、規定以上に厳格に戒律を守ろうとする人々。まじめで宗教的には熱心な人々に思われていたが、実は、その熱意は表面的であり、内面的には偽善者であると、イエスさまに批難された。 律法学者 旧約聖書の律法規定を、いかに実際生活に適用させるかを研究する学者。旧約聖書のほとんどのことばを暗記するほど旧約聖書に精通していた。しかし、イエスさまは彼らの解釈は独善的で自分勝手であると批難された。 アブラム 旧約聖書の代表的人物であり、後に神の命令で名をアブラハムと改める。 ユダヤ人とアラブ人の祖先であり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の共通の「信仰の父」として尊敬されている。元々はメソポタミヤの古代都市ウルの出身。 神の命令で1500キロ以上の旅をしてカナンに移住した。相当の大富豪であり、彼の家で生まれた壮年男子のしもべだけで318人いたことが14:14に記されているので、カナン移住の際には少なくとも千人以上の大集団だった。 JECA信仰告白・第6条「聖霊」 JECA信仰告白・第6条「聖霊」 「聖霊は、人に罪を認めさせ、新たに生まれさせて、神の子どもとされる。聖霊はキリストを信じる者の内に住み、その人々を、この世でキリストにあって生きる者とし、キリストのかたちに形造られる。」 当教会の属する日本福音キリスト教会連合(JECA)の信仰告白は、 1「聖書」 2「神」 3「神のみわざ」 4「人間」 5「キリスト」 6「聖霊」 7「救い」 8「教会」 9「再臨と最後の審判」 の全9条。今年はこの告白内容を、毎月1条づつ礼拝で学んでいる。 モーセ 旧約聖書の中心的人物。映画「十戒」の主人公。 エジプト奴隷時代のイスラエル人をエジプトから脱出させカナンの地へと導くリーダーとして神に召された。 旧約聖書の最初の5つの書物はモーセが著者であるため「モーセ五書」と呼ばれる。彼は神の前に立ち顔と顔を合わせるようにして神と交わったので、神の栄光を反映させ、顔の肌から光を放つようになったため、イスラエルの民に恐れられ、顔におおいをかけた。 聖霊 御霊とも言う。三位一体の神の第三位格。単なる霊力ということではなく、イエスさまと同じように人格をもち、知恵や力などすべての点で父なる神と同様に全知全能の神であるお方。救いのみわざにおいては、イエスさまの黒子のように働かれ目立たないので意識はされないが、私たちの助け主(ヨハネ14:16-17)であり、特に主イエスを信じる信仰の告白は聖霊による(Tコリ12:3)。 ピリポ・カイザリヤ ヘルモン山麗の高台に位置する町。 ヘレニズム時代からパン神の神殿があった。BC20年にヘロデ大王はローマ皇帝からこの町を与えられ、その記念に皇帝の像を安置した大理石の神殿を建てた。その後、その子ヘロデ・ピリポが町を拡張美化し、皇帝に敬意を表して町の名をカイザリヤ(カイザルの町)と改め、地中海沿岸のカイザリヤと区別するため、あえて自分の名を加えて「ピリポ・カイザリヤ」と呼ぶようになった。 福音 「喜ばしい知らせ」という意味。 主の生涯を記した4書を福音書というのは、キリストこそ最も喜ばしい知らせだからである。私たちにとって最も幸いなのは、金銭を得ることでもなければ、長生きすることでもないし、よき結婚や子宝を得ることですらない。最も幸いなのは、私たちを造られた造り主のもとで、造り主と親しく交わることでる。それは生き別れになった家族の再会のようなものである。福音とは、交わりが断たれていた造り主との再会であり、それはキリストの十字架と復活によりなしとげられた。 ペンテコステ ギリシャ語で「50日目の祭り」の意味。使徒2:1の「五旬節」のこと。 大麦の初穂の束をささげる日から50日目に行われた祭り(レビ23:15以下参照)。この日に聖霊が主イエスの弟子たちに下り、弟子たちは力を受けて福音を伝え、その宣教で一気に増えた弟子たちによって「初代教会」が誕生したのである。そこでこの日は「聖霊降臨日」として、主の降誕を祝う「クリスマス」、主の復活を祝う「復活節」と並ぶ記念日とされている。 ヨハネの福音書 マタイの福音書5-7章に記されている、イエスさまの説教。 数あるイエスさまの説教の中で、最も有名であり内容も豊富。「幸いの教え」、「殺しや姦淫の行為だけでなく、心の思いを神が裁かれること」、「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい。」、「主の祈り」、「空の鳥・野のゆりを見なさい。」、「求めなさい・捜しなさい・たたきなさい」等、特に有名な教えが多い。イエスさま独特の印象的な教えであり、倫理性が非常に高く、父なる神への信頼があふれており、説得力が強い。 山上の説教 マタイの福音書5-7章に記されている、イエスさまの説教。 数あるイエスさまの説教の中で、最も有名であり内容も豊富。「幸いの教え」、「殺しや姦淫の行為だけでなく、心の思いを神が裁かれること」、「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい。」、「主の祈り」、「空の鳥・野のゆりを見なさい。」、「求めなさい・捜しなさい・たたきなさい」等、特に有名な教えが多い。イエスさま独特の印象的な教えであり、倫理性が非常に高く、父なる神への信頼があふれており、説得力が強い。 いけにえ 古代の宗教にはいけにえがつきものだが、最初のいけにえは人類の祖先アダムの子のアベルによって献げられたことを考えると、人類は太古からいけにえの習慣を受け継いでいたと考えることができる。 いけにえには身代わりの死という意味があり、その体を燃やす全焼のいけにえは、人間には何のメリットもないことから全てを神にささげるという意味で行う。旧約時代には罪を自覚したものはいけにえを祭司に託し、祭司が身代わりの死となるよう祈って献げた。 善悪の知識 「なぜ神は善悪の知識の木を作ったのか?」と言う疑問はよく聞く。しかし、それは自分にとっての都合良さを求める勝手な思い。善悪の知識の木がなくとも、本質的な問題は何も変わらない。たとえ命じられていないことであっても、たとえば、殺人を犯したなら「聞いていなかった」という言い訳など通用するはずがない。誘惑をしりぞけてこそ善悪をわきまえ知る。誘惑に負ければ失敗で善悪を知る。どちらでも善悪を知る。それが善悪の知識の木を造られた目的だったのではないか。 人間観 仏教思想の人間観には「性善説」と「性悪説」という正反対の見方がある。 性善説では人間は生まれた時は良い存在と考えるので、自分で自分の可能性を伸ばすという自力本願思想に発展する。 性悪説は人間は本質的に悪と考えるので、謙虚に他者の助けを求めるという他力本願思想に発展する。 しかし聖書はその両面を持つ。「神のかたち」という人間の本質は性善。堕落し原罪を持つ点は性悪。「罪人」は両面の性格を持つ矛盾した存在なのである。 強調表現としての繰り返し 聖書は古代中近東の文献であるため、文章表現における文学的技法は、現代日本人のそれとはかなり異なる面がある。 例えば、日本語では同じ言葉の繰り返しを嫌い、同じ意味でも異なることばを用いようとする傾向があるが、聖書ではあえて同じ言葉を繰り返す事によって、読者の注意を喚起したり、意味を強調したりする技法が用いられることが多い。 預言者イザヤ 預言者イザヤは、紀元前740〜690年頃に活躍した。 それ以前にイスラエルは南と北に分裂していたが、すでに北王国はアッシリヤ帝国によって滅亡し、イザヤのいる南王国ユダも、危機を迎えた。一時は首都エルサレムが包囲されたが、イザヤはエルサレムが守られることを預言し、不思議な形で実現した。しかし、その後、バビロンをによって国が滅び、人々が補囚となって連れ去られることを預言し、彼の死後に実現した。イザヤは多くのキリスト預言をしたことでも有名。 地球環境 地球の環境は非常によく守られている。 太陽からの距離は近すぎても遠すぎても生命が存在できない。 地球の自転の傾き(23°)はちょうど良い。他の惑星のように垂直なら季節がない。 地球の大気は酸素20%と薄すぎず濃すぎない。0.3%パーセントの二酸化炭素もちょうど良い。ほんのわずか多すぎても温暖化し、少なければ植物が困る。 オゾン層をはじめとする有害放射線のバリヤー効果は、板厚1メートルの鉛に相当する。 木星や土星も実は地球を守っていることがわかってきた。 長期間説・24時間説 旧約聖書の言語であるヘブル語で、「日」と訳された“ヨム”という語には「時代」という意味もあります。ですから創造の「日」が24時間なのか、長期間なのかはことばだけからは確定できません。 世界の古さを調べる学問が発達する以前は24時間説が主流でしたが、宇宙はもっと古いと考える学説が主流になるにつれて、長期間説が支持されるようになりました。 しかしそれでは進化を認め、神の創造を否定することになると、24時間説を強調する「根本主義」と呼ばれる思想が登場し、特に米国では強い支持を集めています。しかし世界の古さは創造とは別の問題です。 取税人 イエス様の時代のイスラエルは、ローマ帝国の属国でした。ローマ帝国は属国からの税金徴収は現地人を雇って行っていました。彼らは自分で集めた税金の中から、自分で決めた額の給料を得ていました。ローマは規定の税金さえ納めれば、取税人がどんな方法で税金を集めどれだけ自分のふところに入れても干渉しませんでした。そのため、取税人は必要以上に徴収して私腹を肥やすのが常であり、同胞からは売国奴とみなされ嫌われていました。ローマの法では処罰されないものの、律法(旧約聖書)を犯しているという意味で、取税人は遊女と同様に「罪人」と呼ばれていたのです。 三位一体 数学の∞記号を使った説明の続き。 1+1+1=3 それで「エホバの証人」は三位一体を非合理と否定する。 しかし、神は無限のお方なので、∞と表記すると、∞+∞+∞=∞である。 救いも∞を使うと良い説明ができる。私たちの行いを1,10,100などと数値で表し、永遠の命(∞)には、どれくらいの行いが必要か計算する。1+10+100+1000+1万… いくら足しても∞には絶対ならない。しかし、十字架の贖い(∞)を神の恵みとして加えると、100+∞ も 1+∞ も、悪い行いで -100万+∞でも、=∞なのである。 無限 数学の表記では∞と書く。∞が数式に登場すると、解は必ず∞になる。 ∞+∞=∞ ∞×∞=∞ ∞÷∞=∞ である。 では、 ∞−∞=? 答えは0? それとも∞? 正解は∞である。 この例から「神の無限性」を考えると、神はいくら与えても乏しくならない豊かなお方だと言える。神は私たち人間の理解の限界を超える存在なのである。 汎神論と唯一神論 汎神論(はんしんろん) 人も動物も木々も山々も、すべての存在の総合が神であると考える神観。日本の神道をはじめ、仏教、儒教、ヒンズー教、ギリシャ神など、世界のほとんどの宗教が汎神論に属する。 唯一神論(ゆいいつしんろん) ただひとりの神が、世界を造ったと信じる神観。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教が唯一神論に属する。これらはいずれも旧約聖書を信じる宗教である。 反キリスト 聖書を客観的には神のことばと認めず、伝承や断片的な文書が後代の宗教家によって編纂された文書と考え、その実態を把握しようとする学問。 彼らは明らかに無神論的合理主義に影響されており、奇跡の記事は事実ではなく宗教的な比ゆであると見る傾向が顕著である。聖書を「神の言葉が含まれている人間の著作」、あるいは「神の言葉だと評価された人間の著作」と見て、聖書中に埋もれた神のことばを捜そうと試みるが、学者間で意見は大きく食い違う。神のことばより学者の意見を信じるのは不信仰。 聖書批評学 終末期に登場する、キリストに敵対する偉大な人物。奇跡的な力を持ち、敵対勢力を結集させキリストに戦いをいどみ、最後は捕らえられ滅ぼされる。 この「反キリスト」という用語はヨハネの手紙のみだが、主イエスの預言した「偽キリスト」「荒らす憎むべきもの」(マタイ24章)、パウロの語った「不法の人、滅びの子」、黙示録の「獣」などは、いずれも同じ存在の出現を預言している。また、ヨハネT2:22には、「御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」とあり、キリストを否定するも者は結局反キリストだと教えている。 外典 カトリックの使う新共同訳聖書には、旧約と新約の間に旧約聖書続編という文書が加わっている。カトリックはそのうち10書を第二正典として聖書と同様に扱う。歴史的には旧約と新約の間には500年ぐらいの空白があり、外典はこの空白期間に書かれた文書である。そのため、歴史をたどるためには不可欠な文書であり、新約のヘロデ王がなぜユダヤの王になったのかという疑問や、サドカイ人やパリサイ人という人々がどのように登場するのかを知る参考書となる。しかし、プロテスタントは外典を聖書と区別し、一般書として扱っている。 神の武具 パウロの例えた武具は、ローマ軍人の装備と同時に、聖書中の別のことばをも思い浮かべさせる。 ・真理の帯 →「正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。」イザヤ11:5 ・正義の胸当て →「さばきの胸当て」出28:15 ・足には平和の福音の備え →「良い知らせを伝える者の足は」イザヤ52:7 ・信仰の大盾 →「主の真実は、大盾であり、とりでである。」詩91:4 ・救いのかぶと →「主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり」イザヤ59:17 ・神のことば →「その方は…神のことば…口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。」黙19:13,15 住民登録 ローマ帝国のような古代社会においては、租税や徴兵のためにしばしば住民登録が行われた。現代のように誕生・死亡・結婚・引越し等のたびに役所に届けを出す厳密な戸籍制度がなかった時代であったので、登録記録の更新は、社会秩序の維持のために必要であった。ヨセフは身重になったいいなづけの妻マリヤも登録するためにベツレヘムに行ったとあるので、生まれる子がヨセフの子でありダビデの家系であることを社会的に認知されるために必要なことであったのだろう。 処女降誕 生物学的には、無精子でも、卵子に何らかの刺激を加えることによって自己分裂を始めることがあることが確認されている。この現象が母体内で起きれば、処女生殖が可能である。しかし、自己分裂ではXY染色体結合はありえないので、例外なく女性が誕生する。処女が男子を出産することは、やはり神の奇跡以外には説明不可能な事柄である。 小さな聖書 ヨハネの福音書3:16は、宗教改革者ルターが「小さな聖書」と呼んだ有名な箇所。聖書全体のテーマを要約したようなことばという意味。
大変励まされることばであり、伝道にも用いやすいので、このことばはぜひとも暗記しておきたい。 禁酒禁煙 禁酒禁煙は聖書の教えではなく清教徒の思想。しかし聖書には「酔ってはいけません」と書かれている。(煙草ということばは聖書には出てこない)「そこには放蕩があるからです」と書かれている通り、飲酒喫煙が健康や道徳的に問題である事は一般的にも認められ子どもには禁じる。子どもに禁じることを大人がして見せるのは逆効果。 当教会では最低限教会敷地内では禁酒禁煙。それぞれの生活の中でも、むしろ主に喜ばれることを求めよう。 会堂・会堂管理者 ユダヤ教はバビロン捕囚(集団強制移住)により、エルサレム神殿での礼拝ができなくなったため、人々が集まって聖書のことばを読み祈るという会堂礼拝が生み出されたようである。この会堂礼拝が、後のキリスト教会の原型となる。 捕囚という痛みも、主の摂理により恵みの経験とされていたのである。 会堂管理者は、その会堂の長老たちの中から選出され、会堂の建物だけでなく、会堂礼拝のプログラムを定め司会するなど、教会で言えば役員・執事のような立場である。 ウィクリフ John Wycliffe 1320頃-1384年 聖書をはじめて英語に翻訳したオックスフォード大学の教授。 聖書は元々旧約はヘブル語、新約はギリシャ語で書かれているので、それぞれの言語に翻訳される必要がある。古代にも多くの翻訳がなされたが、中世カトリックはラテン語訳のみの使用を命じた。その時代に英語に聖書を翻訳したため、死後カトリック教会から異端とされた。 異本 本日の聖書朗読箇所ヨハネ5章3節の、新改訳聖書の欄外注に、「異本」ということばが出てくる。これは聖書の別写本のことで、新改訳聖書が翻訳上の原典とした写本とは異なる写本を指す。印刷技術が発明される以前は、聖書は手書きで筆写されていたため、写本間に誤写や意図的書き換えのため異なる部分がある。新約聖書の場合、写本はたくさん残っているので、写本間の相違の問題もそれだけ多い。原則は、古い写本を優先する。ヨハネ5章3節の場合は、有力写本の比較上、原文にはなかったが、原文を理解するための参考として書き加えられた部分と思われるケースなので、新改訳聖書では欄外に記されている。 賜物 神がそれぞれの人に与えてくださっている、高い能力や、特別な持ち物や、優れた人格的特質を指して賜物と言うことが多い。 しかし、それだけでなく、救いの恵みを賜物と言うこともある。私たちは神の被造物なので、いのちそのものをはじめとする、神が与えてくださる恵み全般を賜物と言うこともできるのである。 大切なのは、どの賜物も、神の目的のために私たちに与えられているので、神の喜ばれる用い方をすることが期待されていると言うことである。 詩篇 聖書は散文でも詩文でも書かれているが、事実や思想を正確に伝えるためには散文が主に用いられ、情感を込めて印象深く伝え、繰り返してその意味を味わうためには詩文が用いられている。 詩篇は特に、古代イスラエルの賛美であり、器楽演奏とともに歌われ、礼拝において用いられた。詩篇はことばが印象的で覚えやすいので、生活の中でみことばの励ましを受けるために効果的。積極的に親しもう。 召天 主イエスを信じた者は、天の神の国へ入れられるという教えから、キリスト者の死は神が天へと召されたのだと捉える。信仰の先達はむなしく消え去ったのではなく、天国で幸せに意義深く生きているのであるから、私たちもまた主イエスを信じて信仰の先達とも天国で再会したいという希望を抱く。便宜上、洗礼を受けていた方について召天と表現しているが、主を信じていれば洗礼を受けていなくとも天に召される。 飲酒 聖書は飲酒自体を禁じてはいませんが、酔いのもたらす災いについて厳しい注意を与えています。「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです(エペソ5:18a)」 とあるように、酔って自制がきかなくなると、自分や他者を滅ぼしかねないのです。(箴言23:29-35も参照) むしろ「御霊に満たされなさい(エペソ5:18b)」と勧められているように、酒ではなく御霊によって心が満たされることが健全な喜びなのです。 御霊 聖霊とも言う。三位一体の神の第三位格。単なる霊力ということではなく、イエスさまと同じように人格をもち、知恵や力などすべての点で神であるお方。救いのみわざにおいては、イエスさまの黒子のように働かれ目立たないが、私たちの助け主(ヨハネ14:16-17)であり、特に主イエスを信じる信仰の告白は聖霊による(Tコリ12:3)。 聖餐式(せいさんしき) 聖餐式とは、クリスチャンが集まってパンを食べ、ぶどう液を飲むという礼典(儀式)です。 このパンはキリストの体をあらわし、ぶどう液はキリストの血をあらわします。これを食する度に自分の罪を悔い改め、キリストの十字架による救いを確認します。 当教会では洗礼を受けた方のみに聖餐を受けていただいていますが、見学は自由です。 ペンテコステ ギリシャ語で「50日目の祭り」の意味。使徒2:1の「五旬節」のこと。大麦の初穂の束をささげる日から50日目に行われた祭り(レビ23:15以下参照)。この日に聖霊が主イエスの弟子たちに下り、弟子たちは力を受け福音宣教を開始し、「キリスト教会」が誕生したのである。そこでこの日は「聖霊降臨日」として、クリスマス・イースターと並ぶ記念日とされている。 エペソ人への手紙 著者はパウロで、AD61年頃ローマ軟禁時代に書かれた。コロサイ人への手紙と内容も文体もよく似ている。コロサイ教会の異端思想の問題に対処するためコロサイ書を書いたパウロが、同様な問題が周辺の小アジア諸教会に及ぶことを考え、「教会はキリストにあって一つとされる」ことを教えるために、エペソを始めとする諸教会に回状として書かれたようだ。 強調表現としての繰り返し 聖書は古代の文献であるため、文章表現における文学的技法は、現代日本人のそれとは異なる面がある。例えば、日本語では同じ言葉の繰り返しを嫌い、同じ意味でも異なることばを用いようとする傾向があるが、聖書ではあえて同じ言葉を繰り返す事によって、読者の注意を喚起したり、意味を強調したりする技法が用いられることが多い。 主の宣教命令 主が弟子たちの果たすべき中心的な使命として与えたご命令。(マタイ28:19-20、マルコ16:15)
(1)あらゆる国に宣教に行くこと。 (2)宣教地の人々に福音を述べ伝えて主の弟子とすること。 (3)弟子となる者にバプテスマを授けること。 (4)弟子となった者が主のご命令に従う歩みをするよう導くこと。 イースター 主の復活の記念日。春分(3/21)後の最初の満月後の最初の日曜日なので、3月末から4月半ばの間で毎年日付が異なる。日本においてはクリスマスのほうがよく知られ盛大に祝われるが、キリスト教における意義としては、私たちの罪を背負って死なれた主が、死を滅ぼし救いを成就した勝利の日であるので、クリスマス以上に意義深い記念日である。 受難日夕拝 受難とは主の十字架の苦しみのことで、主自らが人類の罪の罰を受けるために選び取られた苦難の道であった。 主は木曜の夕に弟子たちに聖餐を与えられ、その晩ゲッセマネの園で逮捕され、金曜に十字架にかけられ、日曜の朝に復活された。そこで木曜夜に聖餐式をする教会もあるが、当教会は受難日の金曜夜に「受難日夕拝」を行い、その中で聖餐式をしている。 家族の救い
献身 神に対して自分自身をささげること。
広義では、信徒がそれぞれの立場を神によって与えられ派遣された場であると理解し、そのままの立場で神に従う生き方をすることを意味する。 4倍にして返す 出エジプト記22章には償いの教えがある。 盗みは二倍にして償うようにと規定されているが、盗んだ家畜を売ったり殺したりした場合は、特に重く4-5倍に償うよう命じられている。家畜は財産としてだけでなくペットのような愛情の対象でもあったからだろう。ザアカイが2倍ではなく「4倍にして返す」と言ったのは彼の深い罪責感を示していると思われる。
祈り 聖書は神からの言葉ですが、祈りは私たちから神への言葉であり、聖書と祈りの両方で神との応答となります。 祈りには個人の祈りと、交わりの祈りと、公の祈りの三種類があります。個人の祈りは自分一人で祈り、祈りの交わりは2人か3人で互いのために祈りあうことです。公の祈りは礼拝などで代表者が祈ります。三つの祈りの形態はどれも大切です。 創世記 聖書の最初の書物。著者はモーセ。 全50章の前半1-11章は、天地創造の記事から始まる有史以前の記事。 11章終わりから登場するアブラム(アブラハム)は紀元前2000年頃の人物で、彼以降の記事は考古学的研究によっても検証できる。 唯一神論に立つ宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)は、いづれも創世記から世界を計画的に創造された神を信じるのであり、この記事以上に世界と人類の起源を解き明かす根拠は他にはない。 クレテ エーゲ海の南端に位置する地中海上の山の多い大きな島。東西約250キロ。南北11-56キロ。 古くから地中海貿易の要衝で世界最古の文明地のひとつ。 パウロはローマに護送されるおりに立ち寄り、ローマ入獄後にテトスを派遣した。テトス1:12のクレテ人の悪い姿の描写はクレテの詩人エピメニデスからの引用。(聖書辞典より) 長老・監督 初代教会における指導者の呼称。 長老は権威を表し、監督は義務・職務を表す呼称のようで、しばしば同一人物を長老とも監督とも呼んだ。 通常各教会には複数の長老がおり、その中から監督が立てられたと見ることもできる。長老の任命は年齢や選挙ではなく、使徒もしくは使徒に任ぜられた人の按手(あんしゅ:手を頭に置く儀式)によってなされた。任命にあたっては、尊敬に値する人物かどうかが慎重に検討される必要があった。 テトスへの手紙 クレテ島の教会を牧会するテトスに当ててパウロが書いた手紙。 テモテ第一第二とテトス書の三書は「牧会書簡」と呼ばれ、牧師をはじめとする主のしもべにとって非常に有益で実際的な助言に満ちている。テトスの名は使徒の働きには出てこないが、パウロの手紙には13回出てくる。彼はパウロの良き協力者だった。 テトス書の目的は、 1.偽教師の中のテトスを励ます。 2.教会の健全な組織化。 3.教会員すべての成長。 などであった。 奉仕 聖書の言う奉仕は、全て神への奉仕である。具体的には人々や教会の必要のために働く事を指すが、単なる義務ではなく、神への奉仕として行うのである。 『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイ25:40)とあるように、誰かのために何かをするなら、その人を最も愛している主が喜ばれるからである。主のために働きたいという意欲を持って奉仕に取り組もう。 預言 聖書の「預言」は単に将来を予告する「予言」とは異なる。預かると言う漢字をあえて用いているように、神からのメッセージを託された預言者が、神のことばとして語ったのが「預言」。そこには将来についての予告もあるが、予告は主目的ではなく、全ての人に理解してもらいたい神のメッセージが中心内容である。 主の生誕地の預言も、小さな村に過ぎないベツレヘムが大いなる使命に用いられるように、神は我ら一人一人に目を注いで豊かに用いてくださると言うメッセージが大切なのだ。 洗礼式(バプテスマ) キリストを信じるしるしとして受ける礼典。 「バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。(ペテロ第一3:21)」とあるように、「救い」自体は信仰で与えられるが、主に従うことを公に示す意義は大きい。 形式としては全身を水につける「全身礼」と水を頭にかける「滴礼」がある。当教会はどちらも正式なものと認めるが、通常は全身礼を施す。 待降日 イエス・キリストの降誕日が12月25日に定められた経緯には諸説がある。
アドベント(待降節) クリスマス前の4週間を、主の降誕を待ち望むという意味でアドベント(到来という意味)と言う。 アドベントには初臨(神であるお方がマリヤから赤子として生まれることで世に臨まれたこと)のキリストだけでなく、再臨(世の審判者として再び世に臨まれること)のキリストを待ち望むという意味もある。神はもっともふさわしい時にキリストを遣わしてくださる。恐れるのではなく、主の最善のみわざがなされることを信じ期待して、主を待ち望もう。 十戒 <神を愛する> 1. あなたには、わたしのほかに ほかの神々があってはならない。 2. 偶像を造ってはならない。 3. 主の御名をみだりに唱えてはならない。 4. 安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。 <人を愛する> 5. 父と母を敬え。 6. 殺してはならない。 7. 姦淫してはならない。 8. 盗んではならない。 9. 偽りの証言をしてはならない。 10.隣人の家を欲しがってはならない。 福音 聖書には「福音書」が4つもあり、福音という言葉が多く出てきます。英語では ‘Good News’、良い知らせと言う意味です。 ではどんな良い知らせなのかというと、罪からの救いが私たちに与えられるという知らせです。この知らせは、アダムとエバによる人類の罪が始まった直後から示され、旧約時代を通じてずっと与え続けられ、時至って主イエスの十字架と復活で実現しました。『福音は、…信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。ローマ1:16』 十字架 キリスト教のシンボルマーク。 もともとはローマ時代の死刑の道具であり、史上最も残酷な死刑の方法と言われる。主イエスがわたしたちの罪の身代わりとして十字架刑を受けたことを忘れないためのシンボル。 なおカトリックの十字架にはイエス像もついており受難を強調しているが、主はすでに復活され罪に勝利したことを示すためプロテスタントではイエス像はつけない。 また正教の十字架は横棒が一本多いが、それは十字架刑を長びかせるための足の添え木の存在を表している。 召天 聖書は人間のいのちは皆、神によって造られ、その生涯の歩みも人生の終わりも、すべて神の支配の中にあると教えている。人生の終わりについて詩篇90:3には あなたは人をちりに帰らせて言われます。 「人の子らよ、帰れ。」 と書かれています。「召天」とは、神が罪からの救いを与えた者を天国へと導き入れられることを表現するキリスト教会独特のことばです。(ヨハネ14:3参照)
敬老に関する聖書の教え レビ記19:32では老人を敬う事と神を恐れる事とが、一連の事柄として教えられている。神を恐れるように老人を敬うという態度がふさわしい。尊敬の故に起立して席をゆずる者でありたい。
ハレルヤ・アーメン ハレルヤもアーメンも、旧約時代から用いられ続けているヘブル語。 ハレルヤは「ハルルー+ヤー」という合成語で「ヤハを賛美せよ」と言う意味。「ヤハ」は「ヤーウェ(主)」の省略形なので「ハレルヤ」は「主をほめよ」の意。 アーメンは「本当に・確かに・その通り」と言う意味。祈りに用いられる場合、その祈りが真実であること、祈りを聞く者がその祈りに同意することを表す。 聖書3「啓示の書」 罪を犯してエデンの園を追われ、神と直接話せなくなった人間に、神がご自分の意志を伝えることを「啓示」という。 啓示なしには人間は神を知ることができない。啓示には自然による「自然啓示」と預言者による「特別啓示」がある。神に記述を命じられた預言者による啓示の書が聖書。聖書には神が人間に伝えようと決められた内容が全て記されている。(第二テモテ3:15-16)
聖書2「66巻の聖書」 聖書は旧約39・新約27の合計66巻で構成されている。 旧約とはやがて救い主が来るという旧い約束。新約はその救い主こそ主イエスでありこの方を信じれば救われると言う新しい約束。どちらも同じ救いを信じる統一された書物である。 カトリックは旧約と新約との中間時代に書かれた旧約外典を聖典に加えるが、外典は良き参考書ではあっても「神のことば」ではない。 聖書1「聖書のみ」 カトリックは聖書より「教会」を重んじ、歴代の教皇や聖人のことば等も神から教会に与えられたことばとして信じるが、プロテスタントは聖書のみを「神のことば」と信じる。人間の理解や教会の伝統には誤りも過ちもある。しかし聖書には誤りがない。聖書は2千年間内容に変化なく、どの時代にも古びることなく信じられてきた。しかも世界中のことばに翻訳され、日本だけで毎年500万冊も発行されている。 伝道礼拝 毎月第4週は「伝道礼拝」となっている。普段の礼拝が信者むけの内容であるのに比べ、伝道礼拝は初心者向けの内容を盛り込むようになっている。救いのあかしや説教も初心者向けに語る事を心がける。またそれは古い信者にとっても知人を誘う場としても、自分の信仰を確認する時としても意味がある。 祈りの課題 神はすべての事柄に関心を持ち、私たちのことばにも耳を傾ける寛容な方です。ですから私たちが神を信頼して人々のために祈るなら、神はその心を喜ばれます。祈りの課題は人々の必要を知り祈る助けとして掲げています。自分自身も祈られていることを感謝し、その祈りに参加する者になりましょう。 聖書通読 聖書は内容を削っても加えてもいけない(黙22:18-19)。 特定の箇所ばかり読むのは削る事と同じなので、聖書全体を通読するのが望ましい。通読に取り組むなら必ず祝される。一日1章読めば3年半で全体が通読できる。 通読の助けとして「みことばの光」のような手引き書も発行されている。 日々のみことばと祈り 主日礼拝だけが礼拝ではない。主はいつでもどこにでもいてくださるのだから、私たちは日々個人的な礼拝ができる。 具体的にはみことばを読み祈ることでそれは実現する。日曜日だけでなく、日々、主を礼拝し、主をあがめて歩もう。 あかし 信徒が自分の経験を通して神の恵みを伝えること。 具体的には、どのようにしてイエス・キリストを信じたのか、また現在どのようにイエス・キリストを信じているのかを言い表す体験談。信仰が実際の生き方にもたらす祝福を語る事は神の真実を人々に示す事になるのである。 父の日 母の日の始まった翌年の1909年にアメリカ・ワシントン州のJ.B.ドット夫人が、男手一つで自分をそだててくれた父を覚えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月の6月に父の日礼拝をしてもらったことが由来。1916年にはアメリカ全土で行われ、1972年、アメリカ国民の祝日に制定された。 会衆 礼拝出席者のこと。 信仰共同体であるイスラエルでは会衆とは国籍と同じような意味で、会衆から除外されるのは市民権剥奪のような重大なことでした。 私たちは単に同好の士が集まっているのではなく、主の招きで出席が許されているお互いなのです。 互いに主の招きを喜びあいましょう。 ペンテコステ 使徒2:1の「五旬節」のギリシャ語で、「50日目の祭り」という意味。
この祭りは大麦の初穂の束をささげる日から50日目に行われた(レビ23:15以下参照)。 この日に聖霊が下られたことを記念して、キリスト教会では「聖霊降臨日」と同義語として用いられている。 報告 報告は礼拝プログラムというより付属的なものだが、会衆の交わりという観点からは重要な意味がある。 教会は単に人と神との縦の関係だけがあればよいのではなく、キリスト者相互の愛の交わりという横の関係も同じくらい重要。 互いのために祈り合うために必要なので毎回報告を行っている。 起立・着席 旧約の神殿礼拝では礼拝者は「庭」で礼拝したので起立したままか地にひざまずいて祈った。 会堂礼拝以降、着席礼拝が通常になったが、現代でもギリシャ正教は3時間起立したままの礼拝。プロテスタントでも賛美は必ず起立という教会も多い。 聖書的には起立・着席は明確に規定できないので、文化として行っている。 母の日 1908年5月10日、アメリカのウェストバージニア州に住むアンナという少女が、牧師であった夫を早くに失い苦労して娘たちを育てながら人々を助ける社会活動家としても活躍した亡き母の追悼式を教会で開き、母が好きだった白いカーネーションを参加者に手渡したのが始まり。 1914年、米国議会は5月第2日曜日を国民の祝日「母の日」と制定した。 会衆の祈り 礼拝後に行っている祈りの交わり。 祈りの形態には個人の祈り、集団での代表者の祈り、少人数での祈りの交わりという三形態があり、どれも大切。 特に祈りの交わりでは、お互いのために祈る事と、共通の祈祷課題を心を合わせて祈る事の二点を心がけよう。 祝祷(しゅくとう) 礼拝の最後に会衆を送り出す祝福の祈り。民数記6:24-26、第二コリント13:13、ヘブル13:20-21などに例がある。
聖書の規定ではないが伝統的に按手礼(あんしゅれい)を受けた教職者が行う教会が多い。当教会でも按手礼を受けた教職者がいない場合には「終祷」としている。 頌栄(しょうえい) 三位一体の神に栄光を帰し、その御名をほめたたえるために作られた賛美歌。第二コリント13:13に由来。
イースター 主の復活の記念日。 クリスマスのように毎年同じ日付けではなく、「春分(3/21)後の最初の満月後の最初の日曜日」なので、3月末から4月半ばの間で毎年日付が異なる。 キリスト教における意義としては、主が私たちの罪を滅ぼした勝利の日であり、最も意義深い記念日と言えよう。
受難日 受難とは主の十字架の苦しみのこと。 それは災難ではなく、主自らが人類の身代わりに罪の罰を受けるために選び取られた苦難の道であった。 主は木曜夕に弟子たちに聖餐を与えられ、その晩ゲッセマネの園で逮捕され、金曜に十字架にかけられ、日曜の朝に復活された。受難日は金曜日。 感謝の祈り 感謝の表現として献金をした後、ことばでも表現するのが「感謝の祈り」。 日頃の主の恵みをおぼえ、またこの礼拝においても恵まれたことをおぼえて祈る。 とりなしの祈り等の問題提起に対して、みことばで教えられた事を祈るなら、「あかし」の要素も加わり、より充実する。 献金 私たちは主に造られた者なので、元々主のものであり、私たちの持っている物も主の物である。その信仰をあらわすのが献金。 自分の手にあるお金の一部を献げることによって、主への信頼と感謝を表現する。 金額は自由(第二コリント9:7) だが、「十分の一」が示されている。マラキ3:8-10参照。
宣教 「説教」「メッセージ」などともいうが、「宣教」は聖書の「教え」を「宣べ」伝えるという趣旨を的確にあらわす名称。 宣教は神のことばである聖書の意味をわかりやすく解き明かすことがその目的。(ネヘミヤ8:8参照)
とりなしの祈り 聖書が神からの言葉であるのに対し、祈りは私たちから神への言葉であり、両者で神との会話となります。 とりなしの祈りは特に人々の抱える課題を神に訴え、ふさわしい導きを求めます。会衆一同が心を合わせて祈ることで、みことばを求める思い、宣教への期待も高まるのです。 交読文 聖書の詩篇は、旧約礼拝における賛美のことばで、文学的技巧を凝らした作品です。その技巧のひとつが二行詩という形態で、一行目と二行目で、意味を反復強調したり逆説したりして効果を出します。これを司会者と会衆が交互に読むことで詩を味わい、主への賛美とするのが交読文です。 聖書朗読 聖書の朗読は、礼拝における最も中心的な内容です。個人用聖書のなかった時代においてはデボーションの役割も果たしました。説教は聖書本文の「解き明かし」ですから、神のことばそのものである聖書本文は説教より重要です。説教を聞く前に、まず聖書本文を正確に読みましょう。 信仰告白 どういう思いで神を崇めるのかを表現するのが信仰告白。 当教会の礼拝では現在「使徒信条」を用いている。信仰告白が正当的であるかどうか、また一致して告白できるかどうかは非常に重要。単に皆と口裏を合わせるのではなく、ことばの意味を良く考えて、心から告白したい。 主の祈り イエス様が「だからこう祈りなさい。」と教えてくださった祈りのことば。 ルカ11章では「祈りを教えてください。」という弟子たちの求めに応じて語られた。礼拝の中で特定の人だけでなく会衆皆が祈るために、共通の祈りの言葉を唱和する必要から主の祈りを皆で祈るようにしている。 開会祈祷 「祈祷」というと呪術的なイメージを感じ、特殊な能力が必要と思う人もいるでしょうが、キリスト教における祈りは「神への語りかけ」であり、いつでも誰でも祈れますし、体裁より心からの祈りかどうかが問われます。 礼拝最初の祈りは、この礼拝と集う人々への導きを求めます。 賛美 聖書では古代へブル民族が神に向かって発した歌声を「賛美」といい「ほめる」「感謝する」「祝福する」といった意味があります。 賛美の主題は神の無限なるご性質を告白し信頼することです。主にささげる思いをもって、兄弟姉妹と声を合わせて心から歌いましょう。 前奏 前奏は心を静める時です。 主を礼拝する者は主の前にへりくだる思いで出席するべきです。前奏を聴きながら自分の心にある高慢な思いや人を裁く思いは捨て、ただこの自分が神の礼拝に招かれていることを感謝し、主からのみことばが与えられることを期待しましょう。 まねきのことば 礼拝が始まるにあたって、私たちがこの礼拝に招かれていることが語られます。着席してまねきのことばを聞きましょう 主日礼拝(しゅじつれいはい) 旧約時代の安息日礼拝は、土曜日でした。今でもユダヤ教は土曜日に礼拝をしていますが、キリスト教会は主イエスが十字架の死から復活した日曜日を「主の日」として重んじ、あえて日曜日に礼拝するようになりました。 聖餐式(せいさんしき) 聖餐式とは、クリスチャンが集まってパンを食べ、ぶどう液を飲むという礼典(儀式)です。 パンはキリストの体、ぶどう液はキリストの血を表します。 当教会では洗礼を受けた方のみが聖餐を受けられますが、見学は自由です。 |
